第十三章 ダルマパーラ1902年の来日 田中智学との会見(三)
・瀧口での談話 「予は比丘にあらず、優婆塞にあらず」
・瀧口での談話 仏教信仰と実践をめぐる智学との「論争」
・二人の別れと後日談
・日露戦争と「人種闘争の世紀」の幕開け
・注釈
▼瀧口での談話 「予は比丘にあらず、優婆塞にあらず」
樗牛が去り、一行が長谷の大仏を離れる頃には、雨が降り出していた。智学・ダルマパーラ等は、日蓮龍口法難の舞台である龍口寺へ赴いた。山主藤原日迦師と会見し、しばし日蓮を救った奇蹟について談義が続く。ダルマパーラは智学の熱っぽく語る日蓮上人の受難物語に感嘆し、重ねて日本仏教の海外布教を促した。だがインドからの客人の風体は、同席した藤原日迦には奇異に見えたらしい。二人の短いやりとりとそれに続く智学との「論争」は、ダルマパーラの「異形」ぶりとそれを支える思想を浮き彫りにしており面白い。読みにくい文語体で恐縮だが、以下に引いてみたい。
藤原 インドには現時小乗教(小乗仏教)のみなるべし。
ダルマ 然り。大乗仏教を弘通するものは、予一人なり。予はインド教、キリスト教、回々教(イスラーム)、小乗仏教及び英国政府等の反対と迫害を受けつつ、予の大乗仏教に於ける主張を称道しつつあり。カルカッタの市長は、予が雑誌の上に忌憚なき論評を敢てするが故に、今少し温和にせよ、卿(ダルマパーラ)は争いを以って慰籍とせるが如し、といえり。予は答えたり。仏陀は常に活動して、物情に拘らずして、妙法を説けと宣まえり。予豈(あに)之に従わざらんやとて、そを改めず。且つそれ予の天質もまた迫害の中に、自己の天職を尽すを以て愉快なりとす。予の父は、予を以て花火の如き、人物なりと謂えり。
藤原 貴下は優婆塞(うばそく 仏教の在家信者)なりや、または比丘なりや。
ダルマ 予は比丘にあらず、優婆塞にあらず。惟(おも)うに仏大聖を去ること遼遠なる今日、慈智戒徳兼ね備われる比丘絶えてあるべきにあらず。また優婆塞は妻子を帯す。予は素より比丘ならず。また妻子を帯せざれば優婆塞にもあらず。自ら一階級を造りて、ダルマプラチャラカー(Dharma pracharaka)という。即ちダルマはサッダルマの略にして、妙法を弘通するものの義なり。故に予は常に十波羅蜜【*1】を実行しつつあり。
ダルマパーラがここで自らの非僧非俗の風体について、明確にそれが自らの「独創」による仏教実践のスタイルであることを言明し、また自らの拠って立つスタンスを「大乗仏教」であるとまで語っている。しかし大乗仏教のオーソドックスな修行体系である「十波羅蜜」を持ち出した彼の言葉には、田中智学がすかさず異議を唱えた。曰く、「十波羅蜜の修行を以て直ちに妙法の修行なりということは、日蓮上人の否定する処なり」と。これにダルマパーラも応酬し、仏教の実践論・布教論をテーマとして、近代仏教の二人の巨頭のあいだで、しばし白熱した論戦が繰り広げられるのである。。
▼瀧口での談話 仏教信仰と実践をめぐる智学との「論争」
ダルマ 十波羅蜜の実行、即ち妙法の修行にして、これを以て直ちに妙法の真理を證得することを得べしと考う、如何。
田中 決して然らず。それは妙法の根本義を把住したる上にて、三学六度十波羅蜜も任運に本法化せられて真理と融即すべしと雖も、若し妙法の根本義に住立せざるに、十波羅蜜を行ずるも、是れ猶砂上に殿宇を築くが如し。故に先ず根本たる妙法を信奉して、然る後に枝葉を活動すべしというが、日蓮上人の主張なり。
ダルマ 自行の時にはそれにても宜しからん。化他の時にはこれを実行せざるべからずとおもうは、如何。
田中 自行化他ともに然り。日蓮上人が妙法の修行を説き給うに、信行と法行との二面あり。信行とは、妙法の真理を信じて不惜身命の安心を決定して修行することにして、法行とは、十波羅蜜等の修行をすることなり。日蓮上人は、信行はその根本の修行にして、法行はその行者の助けとなるものと説きたり。
ダルマ 妙法(サッダルマ)の属性は十波羅蜜にして、例えば四肢五躰を具えて一の人間を得るが如く、十波羅蜜を具足実行して以て一大具象せる妙法の真理に到達し得べし。
田中 そは従因至果の談道なり。根本義を後にして属性を先にするは、三乗の教義にして仏乗の実義にあらず。この事は一朝夕の議論には出来ず、深き教学的素養を要す。貴下が日本大乗教の義判に通じ来るを待ちて、重ねて談論せん。…
ここで田中はひとまず「君が日本の大乗仏教についてもっと勉強をしてからまた話をしよう」と矛を収めんとしたのだが、ダルマパーラはなおも食い下がった。お互いの論点は微妙にずれているようにも見えるが、ダルマパーラには、二十世紀の欧米社会において孤独な仏教ミッショナリーとして歩みつづけた自負心もある。自らの仏教信仰と布教の実践を無碍に否定されては、簡単に引き下がれない。
ダルマ 科学に於いて一事物を種々に分解して観察し、更にこれを統合して系統ある一の真理を見出す如く、妙法もまた之を分解すれば十波羅蜜となる。之を統合すれば妙法となるべし。
田中 その分解のみを知りて、根本を忘るるに至るが多くの仏教家なり。仏乗智を予想せざる十波羅蜜は浮ひょう(サンズイに苹)的道義なり。之を救わんが爲に、日蓮上人は不惜身命の弘通をなし給えるなり。
ダルマ 日蓮上人入滅し給いしより今や殆ど七百年、今にして日蓮上人の如き大偉人出でて弘通し給わばそれにてよからんも、吾等の弘通にあっては之を分解して説きまたは修せざるべからず。日蓮上人は神秘的の偉人なり。上人は妙法を分解して説かざるも、上人自らその説明なり。多くの人は上人その人に偉大を認めて、その云う所をそのままに信ずべし。今吾人はこれに異る。故に吾人自らの大きさに相当する丈に弘通せざるべからず。換言すれば、上人に於ける神秘的の偉大をば、吾人は十波羅蜜によりて補充し修養するなり。
田中 日蓮上人の門下に教えたるは、多くの法門ある中に、信仰の門よりして進め、その信仰は不惜身命にして、妙法釈尊並びに上人に如同せんとして、全然自己を没するに在り。是れ初めより自己を標準とせずして、妙法若しくはその人格的活現たる釈尊・日蓮上人を標準とするなり。能く斯くの如くなれば、妙法、釈尊、上人の功徳自ら吾人に具わるべし。殊に今日に於いては、あきらかに日蓮上人の一大は、即ち不惜身命の信仰より妙法を證得せる標本なり。法華経に於ける信行の法門が事実に活現せるものにして、吾人が今日妙法を修する途は、亦これに傚うにあるのみ。
ダルマ 信ずるということは、実に仰せの如く大切なるべし。而も吾人今アメリカに行きて、突如妙法蓮華経を信ぜよと叫ぶとも無効なり。是に於いてか、妙法の如何なるものなるかを分解して説かざるべからず。説けばまた身に行わざるべからず。
田中 然り。今予の言う処は根本の主義なり。貴下のいう所は妙法施行の方法なり。主義一たび確立して、いよいよ之を弘宣するには、この不惜身命の信仰を根本として学問と実行を兼ね備え、身口意三業具足したるものをば、日蓮上人の善き弟子と称するなり。ただ根底の深くして正しき信念、これが根本たるを忘るべからず。。
▼二人の別れと後日談
ダルマパーラは智学のこの言葉に「了せり」と答え、ひとまず論争は終わった。日蓮の偉大さを賛嘆しつつも、「実践」としての仏教の在り方にこだわったダルマパーラに、智学もいささか押され気味のような論争である。いずれにせよ、インドからの「珍客」として通り一遍の接待を受けることに辟易としていたダルマパーラにとって、智学との真剣なやりとりは、何ものにも換えがたい収穫となったのではなかろうか。
この後、智学とダルマパーラは仏教のアメリカ布教に関して議論した後、晩餐のため藤沢へ向かった。智学は遠来の客を江ノ島へ誘いたがったのだが、ダルマパーラのスケジュールが許さなかった。それにあいにくの雨であった。
藤沢での洋食晩餐の席でもまた熱っぽい応酬が続いた。席上、ダルマパーラは「予は、甚だ日本国を敬愛す。殊に日蓮上人を追慕するに於いて、一層景仰の情を深うせり。…予は、終には日本に住居せんと欲するなり。晩年には志望を遂げらるべしと予想す。」とまで述べている。両者の会談は、午後十時の終電車近くまで続き、時がようやく、二人を引き離そうとしていた。
後日、ダルマパーラは、「…上人の真精神を宣揚して、混沌たる日本の思想界の燈明台となりて導かれんことを、説に希望仕候」としたためた書簡を、約束していた自らの写真に添えて智学に送った。【*2】
この日の会見は智学にも強烈な記憶を残したらしい。彼が後年に口述した回想録の中で、「ダンマパラーという人は、私と談話中に、黙ッて聞いて居るとなかなか音調が朗々として、文句分明言語明瞭だ、如何にも雄弁である、詩を聞いて居るような快感を覚える英語の話し方である、高山(樗牛)も大変驚いて、なかなか此の位立派な英語の出来る人は、本物の西洋人にもあんまりないということであッた。」(「田中智學自伝 第四巻」昭和十一年 師子王文庫)と述べている。
またここまで引用した会見録には掲載されていないが、ダルマパーラは日本の天孫降臨神話とスリランカの建国神話の類似性から大和民族・シンハラ民族の同祖論を一席ぶり、智学を唸らせたりもしたそうだ。ダルマパーラの訪問を、智学は「要山時代に於ける尤も紀念すべき事蹟の一」としている。
一方、ナショナリズムと仏教を強力に結びつけた智学の日蓮主義思想が、ダルマパーラの胸中に何らかの種子を残した可能性はあるだろうか。後に智学を訪ねたフランス人哲学者ポール・リシャール(大川周明の盟友である)が語った所によれば、ダルマパーラはリシャールとインドで会った際、「日本の宗教上の偉人」として智学を挙げ、日本に行ったら是非訪ねるよう勧めたそうだ。
後日談だが、国柱会は昭和二十九年にインド大菩提会のヴァリシンハ(ダルマパーラの後継者)が来日した際、かつて授戒せしめたダルマパーラの追善法要を行っている。【*3】なかなか義理堅い話ではないか。。
▼日露戦争と「人種闘争の世紀」の幕開け
とまれダルマパーラ三回目の来日は、前二回とは随分色彩の違うものであった。ダルマパーラは七月、約二ヶ月の滞在を終えて日本を発ち、明治三十七年(一九〇四)年初頭までをアメリカで過ごした。その後、欧州を経てコロンボに戻りインド・スリランカでの精力的な活動を再開することになる。
ちょうどその頃、日本は大国ロシアに国家存亡をかけた戦争を挑んでいた。明治三十七(一九〇四)年から翌年まで続いた日露戦争で、日本は陸戦における戦果に続いて対馬沖でロシアの誇るバルチック艦隊を粉砕し、国力のギリギリ一杯を投入した賭けにかろうじて勝利する。そしてヨーロッパ列強を押しのけ「アジアの盟主」としての地位を確立するに至った。
英国支配下にあったスリランカの仏教徒もまた、日本の勝利を「キリスト教勢力に対する仏教国の大勝利」と受けとめ大いに熱狂した。また、インドの村々では、日本の一戦一勝を聞くごとイルミネーションを飾ってこれを祝い、「日露戦役」を記録した映画フィルムはアジア大陸の至る所で空前の歓迎を受けたという。【*4】
日本の勝利は、一方でアジアに既得権を持つ白色人種諸国の間にある恐怖心をもたらしつつあった。明治四一年(1908年)のロンドン、スペクテーター紙に曰く、
「けだしアジア人間の相互情誼は、なお未だ強烈なる程度に達せざるにせよ、一応、一舟同乗の観念を相有するは、なお欧州人のアジア的勢力に対して、共通の観念を持ち寄るが如きものあるは疑うべからず。…その長崎よりボスフォラス海峡に至る、アジアの地を風靡して、幾百年沈睡せしアジアの各有色人種をして、蹶然興起せしむることあるはこれを信じて可なり…白色人種はこれに対し、深思熟慮、さらに一層の努力を要する事情あるは明白なり」【*5】
『アジアの有色人種』なる物言い自体、ヨーロッパ人が東方の植民地支配を倫理的に正当化し、加えて選民性を社会ダーウィニズムという“疑似科学”で偽造した際に生み落とされた、架空の「陰画(ネガ)」に過ぎない。西欧の「白人」たちは、この時自らの「影」に怯えていた。しかし、ネガとしての自己規定を強いられたアジア人種もまた、その図式から決して自由ではなかった。
とにかくも、インドをはじめとするアジア植民地諸国の志士達は、「有色人種が白人を撃ち破った」日露のたたかいを一つのターニングポイントとみなし、自治と独立を求める反植民地闘争を本格化させていく。そして、その渦中には我がアナガーリカ・ダルマパーラの姿もあった。。
■注釈
【*1】大乗仏教において菩薩(ボーディサットヴァ)に課せられる十種類の基本的な実践徳目(パーラミター)である。布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の『六波羅蜜』のほうが一般的だが、十波羅蜜はこれに方便・願・力・智の四項目を加えたもの。実際には、六波羅蜜のうち最後の「智慧波羅蜜」が展開して分けられたものである。『華厳経』十地品や、唯識派の理論書である『成唯識論』で説かれている。
【*2】ここまでは全て山川智応『達磨波羅氏の来訪』(『妙宗』明治35年8月 号 『田中智学先生の思い出』田中香浦編s63.11.13 真世界社p546に収録) に依った。一部の地名等をカタカナに改め、文意を損ねない範囲で難読字・ 旧字を改め、または平仮名とした。
【*3】『国柱会百年史』田中香浦監修 昭和五十六年 国柱会
【*4】平石直昭『近代日本の「アジア主義」-明治期の諸理念を中心に』(『アジアから考える[5]近代化像』溝口雄三・浜下武志・平石直昭・宮嶋博史 編 東京大学出版会1994.6.20 収録)
【*5】『大亜細亜主義論』小寺謙吉 大正5.11.21,寶文館,p354。原文の一部を仮名に直した。。