■江戸の資料・基本用語■
1955年TV時代劇草創期に演出家が使用した覚え書きノートをそのまま掲載しています。
時代劇を面白く見るための基礎知識です。正確な歴史資料ではなく、あくまでも時代劇の資料です。
当時、どういう基礎知識でTVの時代劇ドラマが作られていったのか、
また、当時は何が語られて、今現在は何が語られなくなったのか、興味深くお楽しみください。江戸の資料本はこちら。
表記できない漢字は直しました。なお、中田雅喜による注釈を青文字で入れています。
無断転載・二次使用は固くお断りいたします。
| 1:江戸の年表 | 2:武家 | 3:町・寺社奉行 | 4:火事 |
| 5:時 | 6:金 | 7:町人 | 8:教育 |
| 9:職業 | 10:飲食 | 11:医薬 | 12:非人・乞食 |
| 13:地理 | 14:旅 | 15:娯楽 | 16:宗教 |
| 17:口碑 | 18:異国 | 19:逸話 | 20:俗語 |
| 21:風俗・調度 | 22:動・植物 | 23:行事 | 西暦との対比は下図↓ |
| 天正 | 10 | 1582 | 本能寺の変。太閤検地始る。 |
| 16 | 1588 | 秀吉の刀狩。 | |
| 18 | 1590 | 家康入国。千利休死亡。秀吉小田原北條氏征服。 | |
| 文禄 | 1 | 1592 | 12月8日改元。秀吉朝鮮出兵。 |
| 3 | 1594 | キリスト教徒処刑。秀吉死亡。 | |
| 慶長 | 1 | 1596 | 12月27日改元。 |
| 5 | 1600 | 関が原の合戦 | |
| 8 | 1603 | 初代家康。出雲阿国歌舞伎踊り。 | |
| 10 | 1605 | 2代秀忠。 | |
| 14 | 1609 | オランダ商船平戸(長崎県)に入港。 | |
| 15 | 1610 | イスパニア人通商。 | |
| 17 | 1612 | キリスト教を禁止。 | |
| 18 | 1613 | イギリス船平戸に入港。 | |
| 19 | 1614 | 大阪冬の陣 | |
| 元和 | 1 | 1615 | 7月13日改元。大阪夏の陣。豊臣氏滅ぶ。武家諸法度制定 |
| 2 | 1616 | 家康死亡。 | |
| 9 | 1623 | 3代家光。 | |
| 寛永 | 1 | 1624 | 2月30日改元。 |
| 11 | 1634 | 銭貨に寛永通宝使用さる。 | |
| 12 | 1635 | 鎖国令。参勤交代制を定める。 | |
| 14 | 1637 | 島原・天草の乱。 | |
| 16 | 1639 | ポルトガル船の来航を禁止。 | |
| 正保 | 1 | 1644 | 12月16日改元。 |
| 2 | 1645 | 沢庵死亡。 | |
| 慶安 | 1 | 1648 | 2月15日改元。 |
| 4 | 1651 | 4代家綱。由井正雪丸橋忠弥らの幕府転覆の陰謀。 | |
| 承応 | 1 | 1652 | 1月8日改元。 |
| 2 | 1653 | 江戸城玉川上水起工。若衆歌舞伎禁止。 | |
| 明暦 | 1 | 1655 | 4月29日改元。 |
| 3 | 1657 | 江戸大火。 | |
| 万治 | 1 | 1658 | 7月25日改元。 |
| 寛文 | 1 | 1661 | 5月5日改元。 |
| 5 | 1665 | 幕府諸大名の人質止める。 | |
| 9 | 1669 | 蝦夷地でシャクシャインの戦い。 | |
| 11 | 1671 | 伊達騒動裁決。 | |
| 延宝 | 1 | 1673 | 9月21日改元。 |
| 8 | 1680 | 5代綱吉、生類憐みの令。 | |
| 天和 | 1 | 1681 | 9月25日改元。 |
| 2 | 1682 | 西鶴、芭蕉、活躍。 | |
| 貞享 | 1 | 1684 | 月21日改元。大老堀田正俊江戸城中に刺さる。 |
| 元禄 | 1 | 1688 | 9月30日改元。 |
| 15 | 1702 | 赤穂浪士復讐。 | |
| 宝永 | 1 | 1704 | 3月30日改元。 |
| 6 | 1709 | 6代家宣。新井白石幕政に参画。 | |
| 正徳 | 1 | 1711 | 5月7日改元。 |
| 3 | 1713 | 7代家継。 | |
| 享保 | 1 | 1716 | 1 1716 7月1日改元。8代吉宗。尾形光琳死。 |
| 大岡忠相江戸町奉行に起用。(享保の改革) | |||
| 町火消しの制を定める。 | |||
| 元文 | 1 | 1736 | 5月7日改元。 |
| 寛保 | 1 | 1741 | 3月3日改元。 |
| 延享 | 1 | 1744 | 2月19日改元。 |
| 2 | 1745 | 9代家重。 | |
| 寛延 | 1 | 1748 | 7月18日改元。 |
| 宝暦 | 1 | 1751 | 11月3日改元。 |
| 9 | 1759 | 山県大弐尊王論を主張。 | |
| 10 | 1760 | 10代家治 | |
| 明和 | 1 | 1764 | 6月13日改元。 |
| 4 | 1767 | 田沼意次側用人となる。山県大弐処刑。 | |
| 6 | 1769 | 田沼意次老中格となる。 | |
| 安永 | 1 | 1772 | 11月25日改元。 |
| 天明 | 1 | 1781 | 4月13日改元。 |
| 2 | 1782 | 天明の飢饉。(〜1787) | |
| 7 | 1787 | 11代家斉。松平定信の寛政の改革。(〜1793) | |
| 寛政 | 1 | 1789 | 正月25日改元。 |
| 4 | 1792 | ロシア使節ラスクマンが根室へ来る。 | |
| 享和 | 1 | 1801 | 2月5日改元。 |
| 2 | 1802 | 函館奉行を置く。 | |
| 文化 | 1 | 1804 | 2月19日改元。 |
| 11 | 1814 | 杉田玄白蘭学事始めを著す。 | |
| 文政 | 1 | 1818 | 4月22日改元。 |
| 8 | 1825 | 異国船打払令。 | |
| 天保 | 1 | 1830 | 12月10日改元。 |
| 4 | 1833 | 天保の飢饉。(〜1837) | |
| 8 | 1837 | 12代将軍家慶。大塩平八郎大阪に挙兵。 | |
| 10 | 1839 | 高野長英・渡辺崋山が捕らえられる。蛮社の獄。 | |
| 12 | 1841 | 天保の改革。(水野忠邦〜1843) | |
| 弘化 | 1 | 1844 | 12月13日改元。 |
| 嘉永 | 1 | 1848 | 2月16日。 |
| 6 | 1853 | 13代家定。ペリー浦賀来航。 | |
| 安政 | 1 | 1854 | 12月5日改元。日米和親条約。日米修好通商条約。 |
| 3 | 1856 | ハリス着任。(下田駐在) | |
| 5 | 1858 | 14代家茂。安政の大獄。 | |
| 萬延 | 1 | 1860 | 3月1日改元。老中井伊直弼桜田門外に暗殺。 |
| 文久 | 1 | 1861 | 1 2月28日改元。 |
| 2 | 1862 | 坂下門外の変。生麦事件。薩英戦争。 | |
| 元治 | 1 | 1864 | 3月1日改元。幕府長州征伐。四カ国の軍艦が下関を砲撃。 |
| 慶応 | 1 | 1865 | 4月18日改元。 |
| 2 | 1866 | 15代慶喜。薩長連合。福沢諭吉。 | |
| 3 | 1867 | 大政奉還。 | |
| 明治 | 1 | 1868 | 9月8日改元。鳥羽伏見の戦い。 |
| 2 | 1869 | 廃藩置県。東京遷都。 | |
| 6 | 1873 | 徴兵制を実施。地租改正令。 |
| 武家の階級 | 大名…1万石以上。 旗本…9千9百99石以下、御目見得迄。 御家人…御目見得以下。だいたい百石以下。 |
| 御目見得 | 五節句―――1月7日(人日)3月3日(上巳)5月5日(端午)7月7日(七夕)9月9日(重陽)―――や具足開きなどの式に登城した際、将軍家に直々に御目見得すること。 |
| 武家の家柄 | 譜代。お抱え。 譜代…(安祥譜代・三河譜代・平の譜代)譜代の相当な人はお抱えとは縁組しない。 安祥譜代は家康の生まれない前からの徳川の家臣。 三河普代は家康が今川へ人質に行き再び三河に帰ってからの譜代。 平の譜代は家康が江戸に来てからの家来。 |
| 武家の習慣 | 武家の習慣と決められていても、どの藩でも自分の所属する組以外のことは少しも知らないし、また、自分の組のことを他の藩に知られるのも一切禁じられていた。 |
| 隠密 | 隠密の役目を勤めるのは江戸城内の吹上げのお庭番で、一代に一度このお役を勤める。 三代将軍家光公がある日吹上げの御庭を歩いている時、お庭番の水野某を呼び、鹿児島城中を隠密に見てまいれといわれたのが先例となったもの。お庭番の家に生まれたものは、いつ御役目を言いつけられてもよいように手先に芸をつけたり、博奕、遊芸、俳諧等、自分に応じたものを日ごろから身につけるよう努力していたらしい。 |
| 藩中 | 大小名の家来の総称。藩中の侍には定府と国侍がある。 |
| 定府 | 藩中・江戸詰めの侍のこと。代々江戸詰めで国のことは何も知らない。殿様が参勤交代で国許へ帰られても江戸に残された。 |
| 国侍 | 勤番者(殿様のお供で江戸へ上下するもの)と、しない者。 勤番者はとかく田舎者扱いされ、同藩の定府の者からもいじめられた。 |
| 勤番者 | 昔は勤番者と嘲られた人たちが最も高価な桟敷代を払って舞台を見下ろす大切な客になった。 |
| 御留守居 | 定府が務める。一種の外交官でたえず他の藩の情報を集めている。家老より席次は下だが重要な役で各藩に一人で世襲。 茶屋遊び、遊芸、茶の湯、何でも一通りの心得がいる。 宴会の席次は殿様の禄高に関係なく留守居を務めてきた年数により定められ、新参者はその時の費用を全部受け持たされた。 |
| 人質 | 一種の人質として長年江戸へ住まわされてきた諸大名の妻女子息達。 |
| 旗本 | 三万人くらいいた。 高家…足利時代の名家の子孫を大名にしないで旗本にしたもの。 寄合…交代寄合(旗本でありながら参勤交代をするもの)。平の寄合。 平の旗本。 二百石の旗本…道中には若堂1人、中間3人。荷担ぎの人足は宿宿で雇う。 千石以上の旗本…家来に用人、給人、中小姓、若党、中間等など、いくらでもいる。 |
| 殿様 | 五百石以上でなければ普段着に柔らかい物は着ない。柔らかい物といっても紬程度。五百石以下は木綿。 家にいる時は丸羽織。外出には普段の羽織か、ぶっさき羽織を着る。夏は麻でうるし紋。遊びに行く時は紗の羽織。 袴の時は紺足袋。紐で結ぶ。裃の時は白足袋でこはぜ。 羽織袴で白足袋は町人にかぎられていたが幕末になり武士もはくようになった。元禄の頃は皮の小紋足袋。 |
| 三供 | 旗本には必ず、槍持ち、挟箱持ち、草履取りがついた。 |
| 供頭 | 三百石から五百石の者で腕も立ち、目はしの利く確り者の定府がなる。大名行列の行き会った時の礼儀などはこの人の責任。大名が同格の場合は互いに乗り物の扉を開けて挨拶して行き違うが相手によっては片足を乗り物の外に出して土につけて挨拶し、また立礼することもある。 |
| 人入れ稼業 | 平常最小限の中間しか置いていない武家屋敷が登城などの折り供揃いをしなければならないので所定の人数を集めなくてはならない。そこでこの稼業が生まれた。幡髄院長兵衛や新門辰五郎はこの稼業。人入れの親分は供揃いの出る時、屋敷のご紋のついた羽織を着て、玄関先に膝をつき殿様が乗り物に乗るのを待ち、陸尺が乗り物を担ぎ上げるとその棒鼻を押し出す格好をする。 |
| 御逢いの日 | 旗本でも御家人でも、その支配頭には毎月幾度という面会日があった。 |
| 侍の呼び方 | 公式の場合はすべて官位を呼ぶ。目上に対して名字はともかく名前を呼んだら無礼打ちとなった。 |
| 侍の次三男 | 長男は家を継ぐが、次男三男に生まれた者は特殊技能があって御召出しを受ける他は兄の屋敷の厄介者として過ごした。 |
| 男子の教育 | 文事は5才〜7才までに手習い、7才から読書、8才からだいたい武家専門の師匠につく。10才までに四書五経小学の素読を終える。 |
| 侍の内職 | 表向けに免されているものは、読み書き武芸の指南、髪結い、刀研ぎ、武具の繕い、百姓など。ただし店はやってはいけない。女の髪は結わなかった。 その他、傘張り、釣り、小間物、楊枝削り、版下の字や画、花札の絵などを描いた。 |
| 侍の遊び | 下屋敷では何をしても咎められなかったので、旗本はここで花見などをした。碁、和歌、俳句、謡曲、仕舞など。以上七・八百石以上の旗本。 五百石以下は自由に外出も出来たし遊郭へも行った。旗本の次男三男は町人と同じ。 |
| 侍の足 | 常に重い大小をさしているので左の足が発達している。 |
| 侍の捕物 | 侍には頭支配というものがあるので、この人が処分を決めた。次男三男に隠居した者は町人と同様簡単に縄をかけられたが葵の紋服を着ている者だけには絶対縄をかけられなかった。 |
| 蔵米どり | 自分の持っている石高の領地を与えられ、そこから定められた石高を取るのを知行どりというが、領地を持たず、定められた石高を蔵前の札差から取るのを蔵米どりといった。 |
| 札差 | 蔵米どりはその取高を札差から貰うことになっていたが、百石二百石という高の米を貰っても置くところもなく困るので、札差に金に替えてもらった。 |
| お借り上げ | 定められた石高が減らされること。 |
| 御用達商人 | 武士だけを相手にし、金を貸した。 |
| 扶持 | 一人扶持は2分。ただし扶持は月俸であるから年額にすると6両。 |
| 公年 | 16才以下は子供なので、例えば親が死んだ時、子供だと役を取り上げられてしまう心配もあるので、13才でも16才と嘘をついて後を継ぐ。嘘の年が公年。 |
| 素読吟味 | 武士の男子が文事が一人前になっているかどうか試される四書五経素読の試験。毎月10.11日。支配頭の手を経て聖堂へ届け出て受験する。 |
| 元服 | 16才。 |
| 一間住居 | 座敷牢のこと。 |
| 番入り | 世襲、すなわち家督相続のこと。 |
| 隠居 | 侍が隠居してしまうと刀は差さなくても良い。半纏を着ても良かった。片岡直次郎などこの姿。 |
| 用人 | 旗本の用人は大名の家老のようなもの。外交。 |
| 給人 | 旗本の給人は大名の用人。屋敷の内政。生活の会計。 |
| 侍 | 旗本屋敷の家来。給料は3両1人扶持(年俸9両)ゆえにサンピンと呼ぶ。 |
| 中小姓 | 御家人の次三男がなる。 |
| 若党 | 中間と侍のあいだ。中間も若党も出は町人百姓。 |
| 中間 | 下僕。 |
| 草履取り | 中間の役。 |
| 宿下がり | 三月半ば交代、年に一度。日数は二日。 |
| 継裃つなぎかみしも | 普通は上下とも同色。継裃は肩衣と袴の色が違う。御目見得以上の者でないと着られぬ。 |
| 編笠 | 安政年間以後、武士は編笠をかぶらなくなった。編笠の紐がほどけず邪魔になり殺された事件があって以来のこと。 |
| 履き物 | 町人は駒下駄、武士は雪駄、外出の時は草履、雨の時は足駄。武家の女も草履と足駄。 |
| 羽織 | 女は武家でも町家でも着ない。紋付きを着るような場合、武家ではかけを着る。かけは紋付きで黒、裾模様で、織物は着ない。 |
| 権門 | 大名から江戸の役人に送られる賄賂。菓子折りの底に入れたりする。 |
| 神輿 | 大名でも神輿の通るところ、乗り打ちは出来ぬ。乗打(馬に乗ったまますれ違うこと) |
| 家康の馬標 | 5本骨の金扇。 |
| 聖堂 | 徳川幕府の学問所。お茶の水の昌平橋のところにあった。 |
| 亥の子登城 | 10月最初の亥の日の申の刻にかがり火をたいて登城する。夜の登城はこの日だけ。 |
| お城坊主 | 大名は白湯一杯飲むにもこのお城坊主に頼まねばならなかった。正月はお城坊主の儲け月で、大名のところへ行くと馳走になる上に大金を包んでもらえた。御数寄屋坊主は将軍の書見するところに待たしていた。 |
| 御納屋 | (おなや)。徳川家にあり、将軍家の食膳にのせる魚類・野菜類を取り扱う役。 |
| 別手組 | 幕末、世が乱れて来たので旗本や御家人の次三男を召出して別手組(べってぐみ)を作った。 |
| かたき討ち | 最も行われたのは享保以前。 |
| 奉行 | 勘定奉行…直轄領の監督と財政を司り、関八州の訴訟を聞く。 寺社奉行…全国の寺社・神官・僧侶を支配し、関東八州以外の諸国の訴訟を聞く。以上二つの奉行は大名からなる。 町奉行…旗本からなり、町人百姓を扱う。 |
| 町役人 | 江戸では名主。月行事、五人組、家主など。 |
| 与力 | 寄騎。つまり騎兵のこと。ただし町奉行所、八丁掘の与力は旗本のような御家人のような町人のような特殊な存在であった。 |
| 同心 | 与力の下。お抱えの形になっていた。この下に岡っ引きが2.3人ついた。この下に手下が4.5人ついた。 |
| 中間 | 町奉行配下の八丁堀の武士は、南北奉行を通じ、与力が50騎、同心が300人近くいて、これに一人ずつ中間がついていた。 |
| 下っ引き | 岡っ引きの子分の手先の下で働く人。表向きは魚屋や左官、桶職などの商いをする。 |
| 辻番 | 町家の自身番と同じ、屋敷内にある。 |
| 自身番 | 番屋。交番と警察を兼ねたもの。各町内に一つずつある。 |
| 番太郎 | 町内の雑用を足す人。毎日の役は拍子木を打って時を知らせる。 |
| 大番屋 | 自身番から廻されてくる科人が入る所、八丁堀にあった。 |
| 目安箱 | おおざっぱなものだが刑法。 |
| 裁判 | 奉行所の白州。三間に仕切られ、間仕切りの襖は開けてあり、上の間に奉行、中の間に吟味方の与力、その側に書き役が二人、その他に与力が二人座る。 下は砂利が敷いてあり、奉行が犯人に聞きたい時は吟味与力を通して聞く。罪人でも身分のある者は縁側に座らせた。女を裁く時、女が膝小僧から上を出すと調べは中止になった。 |
| 責問 | 叩打、石責(坐った身体の高さまで) |
| 拷問 | 手足を縛って吊し上げる。海老責め。ただし老中の許可が必要。 |
| 牢 | 上り座敷…畳敷き。500石以下の旗本を入れた。 揚がり屋…御家人・大名・旗本の家来、僧侶を入れた。 町人牢…俗に牢という。 百姓牢。 女人牢。 牢は天保三年に、四方格子にした。それまでは三方壁、一方格子。間口四間。奥行三間の中に平均70人詰め合う。しかも名主、一番役、二番役、角の隠居、詰めの隠居、三番役、四番役、五番役、頭数え役などの役付きが広い場所を取り、平囚はその余った所でひしめく。 |
| 刑場への引き回し | 先頭に紙のノボリと木の捨て札(左右が六尺、高さ一尺三寸のもみ板に九尺の枝を付けて)非人が捧げる。紙のノボリは西の内の紙36枚を旗のように張り合わせる。 これに続いて朱槍が2筋、サスマタ、袖がらみ等の捕り物道具、護送の非人が25人。これに続いて罪人が裸馬にのせられて引き回される。 |
| 刑罰の種類 | 死罪。下手人。斬罪。獄門。磔。鋸挽。火罪。遠島。追放。 属刑として晒・引き廻し、入墨、非人手下がある。軽いものには叱り、過料、戸閉め、手錠。 また身分のある者には遍塞、遠慮、慎み、閉門、窒居、隠居、永隠居、改易、切腹。 僧侶には晒、追院、一派構、一宗構、など。 |
| 死罪 | 十両以上盗んだ賊・追い落としに科す。打ち首(目隠し)。 |
| 下手人げしゅにん | 過失殺傷罪。処刑の方法は打ち首(目隠し)。 |
| 斬罪 | 目隠しのない打ち首。 |
| 獄門 | 牢屋の内で切首に処したものを牢獄の門前にさらす。 |
| 磔(はりつけ) | 主殺し。親殺し。関所破りなどに科す。 |
| 鋸挽のこぎりびき | 三尺四方、深さ二尺五寸ぐらいの箱の中に罪人を入れ首枷をし、竹鋸で挽く。 |
| 火罪 | 放火をしたものに科する。 |
| 遠島 | 伊豆七島、薩摩五島、肥前天草、隠岐壱岐など。 |
| 追放 | 武士…軽追放:江戸十里四方、京、大阪、東海道、駅路、日光山内、日光道中、住まっている国、罪を犯した国などよりの追放。 中追放:武蔵、山城、摂津、和泉、大和、肥前、東海道駅路、木曽路、下野、日光道中など。 重追放は関東八州が加わる。 百姓町人…江戸十里四方払い。 |
| 戸閉 | 家の戸を釘付けにする。 |
| 鶴殺し | 江戸時代に鶴を殺すと死罪または磔になる。 |
| 贋金つかい | 磔刑。 |
| 心中 | 心中の制裁は八大吉宗の時に設けられた。 |
| 雷死 | 検死をしない。 |
| 無提灯 | 日が暮れてから無提灯で城下を歩くのは御法度。 |
| 江戸の警察組織 | 町奉行(南・北、月番で交代) (警視総監兼東京都知事) ↓ 与力(乗馬階級で一騎二騎と勘定する)(南北25騎づつ50騎の定員) (警視) ↓ 同心(南北合計100人。のちに280人に増える) (警部補) ↓ 岡っ引(江戸で岡っ引き、京・大阪では目明かしと呼び、面と向かっては親分さん、本人は御用聞きと自分のことを言った)(月給1分2朱で薄給のため汚職をやる者も中にはあった) ↓ 手先(岡っ引が養う。手柄をあげて縄張りに空きがあれば御上の許しを得て岡っ引きになれる) ↓ 下っ引(平常は別に職業、床屋とか飴屋とかを、持っている) |
| 犯人捕縛 ↓ 番や(交番)(町内連絡所)→自身番(庶民の町にあり、番太を雇ってある) →辻番(屋敷内にあり、大名旗本が設置したもの) ↓ 八丁堀の大番所 ↓ 町奉行のお白州 ↓ 伝馬町の牢獄(斬罪はここで処刑) ↓ 小塚っ原や鈴ヶ森刑場(主殺し親殺しの凶悪犯は引き回しの末刑場送り) |
| 火消 | 定火消…武家火消で若年寄りの支配で俗に十人火消という。維新の頃には。2.3人となった。 10人10ヶ所の火消屋敷は八代州河岸、半蔵門御門外、御茶ノ水駿河台、赤坂御門外、飯田町、小川町、四谷御門内、市ヶ谷、左内坂、溜池にあった。与力6騎、同心30人、100人前後の火消人足。 この人足を火焔(がえん)という。火消屋敷で太鼓を打ち、火の遠近、方角をしらせた。この太鼓を打つまでは板木も半鐘も鳴らせなかった。 大名火消…人手方、桜田方、二の丸、紅葉山、吹上、浅草御蔵、上野寛永寺、増上寺、聖堂、猿江材木蔵などにある。 方角火消…大手組、桜田組、23万石以上56万石までの譜代大名がこれを勤める。 門内の火災は消すが門外の火事は火の粉や飛び火を防ぐだけ。 町火消…いろは48組と本所深川16組の総称。頭取りーーー組頭―――まといーーー梯子―――平人―――人足(土手組) 加賀鳶…加賀百万石の抱え火消。お手古ともいう。本郷五丁目の上屋敷の八丁四方の火災に備える。この他親戚、菩提寺、将軍家学問所の聖堂の火消も務める。 各自火消…各自の屋敷の八丁四方、五門四方、三丁四方内に起こった火事の火消に当たる。 見舞火消…藩主の親戚とか菩提所の近火の場合、定紋をつけた騎馬の武士に連れられ防火器を備えて馳せ向かう。 |
| 御救小屋 | 火災避難所。たいていは河岸端に建てられた。 |
| 江戸の火事 | 代表的な大火は明暦3年正月18日〜19日(振袖火事)。明和9年2月29日。 |
| 時の勘定 | 日の出を明け六つ、日没を暮れ六つとし、暮れ六つから明け六つを六等分してこれを夜の一日向、明け六つから暮れ六つまでを六等分して昼の一日向とした。 明け六つーーー卯の刻(6時) 五つーーー辰の刻(8時) 四つーーー巳の刻(10時) 九つ(正午)午の刻(12時) 八つーーー未の刻(2時) 七つーーー申の刻(4時) 暮れ六つ(入相)酉の刻(6時) 五つ(初夜、初更)戌の刻(8時) 四つ(二更)亥の刻(10時) 九つ(三更)子の刻(12時) 八つ(四更)牛の刻(2時) 七つ(五更)寅の刻(4時) *注*…ただし、日の出日の入りで六つを決めたから、現在のように"6時だけどまだ明るい"とか"もう暗い"とかはない。 |
| 時の太鼓 | 江戸城でお城坊主が打った(昼夜12回)太鼓の音を標準時とした。明け六つで見附○○の門を開け、暮れ六つで閉じた。町内の木戸は四つで閉める。江戸城でお城坊主が打った(昼夜12回)太鼓の音を標準時とした。明け六つで見附見附の門を開け、暮れ六つで閉じた。町内の木戸は四つで閉める。 親の急病とか親戚の不幸のときは特に出入りを許された。暮れ六つの太鼓だけはきざみ(どん…どどどどどどど…どん)を入れた。太字の部分がきざみ。 |
| 時の鐘 | 江戸に9ヶ所あった |
| 金の勘定 | 1朱が4ツで1分。1分が4ツで1両。1朱は625文。1両は60刃。1刃は165文。 |
| 一円 | 1両のことを1円と言った。 |
| 一朱銀 | 俗にお台場ともいう。 |
| 富札 | 百両当たっても、うちの20両は冥加金として奉納する。 |
| 江戸の町人 | 江戸町人の祖先はほとんど上方から来た者。古町(こまち)町人は徳川初代二代にかけて移住したもので、いろいろ特権があった。 御目見得屋敷は古町町人で角屋敷に住んでいたもので御慶事の折りは将軍に拝顔を許されていた。 |
| 町年寄 | 江戸の自治機関・・・町年寄り、名主、五人組、月行事、家主。 町年寄り…樽氏(もと樽屋)、館氏(もと奈良屋)、喜多村氏。 町人の総支配・市長という格。 |
| 名主 | 町年寄りの下。享保七年に新しく名主を置くことを禁じた。支配内の公務取り扱い、民事訴訟はここでたいてい裁かれた。 |
| 五人組 | 名主の下にあり、一町内の名主の組合である。月行事を決め、町内の家持ち、借地、店借の者などから差し出す訴願に連署し、奉行所へ出るときは付き添って行かねばならぬ。 |
| 家主 | 大家。家主。 |
| 橋番 | 身投げの見張り。 |
| 町道場 | 剣道・柔道ともに侍・町人の区別なく教えていた。 |
| 手習の師匠 | 浪人とか儒学者が多い。稽古場は板塀で縁なしの畳、後ろにいくらかの板間、そこに手桶があり、手習いのための水がある。大きな火鉢にやかんがかかっている。床の間に天神様の軸物が掛けてある。弟子の並び方は机二つずつを向かい合いに一組にしてある。 |
| 江戸方角 | 手習いの本。 |
| うろうろ船 | 小伝馬船で昼のうち大川筋から神田川、小名木川から日本橋へり。中洲から鉄砲洲などの河岸を行商していた商人の船。魚、野菜、菓子、油、米など。 |
| 煙草屋 | 刻み煙草の荷を担いで諸藩邸の勤番小屋や中間部屋や寺寺に売りに行く。 |
| 虫売り | この虫売り・風鈴うり・初午の太鼓売りは決して呼んで歩かずに物の音で売った。 |
| 花火屋 | 玉屋は天保14年4月17日火事を出し、ちょうど12代将軍家慶将軍が日光御社参の御留守中であったので失火の罪で追放となった。その後は鍵屋だけとなった。 |
| 餌まき屋 | 浅草千束にある。百姓が幕府の命を受けて鷹狩りの鳥を飼い慣らすために毎日二回ずつ餌を撒いておく。その仕事をした者。 |
| 飼馬屋 | 方々の武家屋敷へ馬稜を納める。 |
| まとい屋 | 纏を作る家は神田堅大工町に纏屋が一件あるきりだった。 享保5年、町火消しの纏は、その組組の方角を記して、ある長さ7尺の吹き流しをつけることになった。 享保15年、纏の吹き流しをやめて馬簾をつけた。 各組の記はいずれも将棋の駒と定められた。 諸大名の纏などは槍屋の手によった。 |
| 日陰所 | 刀を売っていた。 |
| 山崎町 | 法衣や袈裟の絹織物を売っていた。 |
| 写真師 | 安政元年の春頃、我が国にも写真術が伝わった。アメリカの船員より。横浜に広まった。ただしこの頃はまだ風景の写真が多く、特別の依頼がないと人は写さなかった。 |
| 軍書読み | 浅草寺境内の奥山などで行われ、人々から恩召をうけていた。 |
| 万歳 | 屋敷万歳は出入りの屋敷が決まっていた。町万歳は乞食万歳と悪く言われた。三河から来る。 |
| 才蔵 | 万歳の相手を勤める。主に安房上總下總方面から毎年暮れになると出てきた。だいたい組が決まっていて、正月が来るたびに顔を会わせた。 |
| 旅絵師 | 行く先々で自分の描いた絵を売って路用とした。 |
| 鳥刺し | 毎日市中市外を巡って鷹の餌にする小雀を採って歩いた。 |
| 銭湯 | 町家ではどんな大家でも内風呂は許されなかった。近世になって少しはゆるめられる。 銭湯は最初男女混合であったが弊害が多いので禁止された。湯屋の二階では将棋を指したり昼寝をしたりお茶を飲んだりした。 下の柘榴口では唄う声が聞こえ、時々番台の拍子木の音が入る。番台には糠袋など掛けてある。上の方が男湯、下の方が女湯。入り口にのれんを下げ、のれんの後ろは紙を貼った潜り戸の格子。格子の左右はやはり出格子。下は羽目板で留桶や小桶がつんである。台風の日は湯屋は休業。 |
| 柘榴口 | 浴槽は高く作られて、踏み段をこえてはいる。その前に柘榴口というのが立っているのでこれをくぐり踏み台を越えるわけ。浴槽の中は暗かった。 |
| ひば湯 | 釜前は石造りまたは煉瓦造り。火災の憂いが減った。 |
| 菖蒲湯 | 5月の節句と4月5日の両日。夏の土用半ばは桃湯。12月の冬至には柚湯。(桃湯は桃の葉を浮かす。こうすると虫に食われぬといった)特別にこうした日は客の方で湯銭を半紙にひねって規定の湯銭より多く包んだ。 |
| 貰い湯 | 正月と盆の16日は入場料はすべて三助の貰いとなったので当日は三助が番台に登り、やはりおひねりの湯銭をとった。 |
| 七草粥 | 正月7日に食べる。せり、なずな、ごぎょう、はこべ、仏の座、すずな、すずしろの7種の若菜を入れる。 "七草なずな、唐土の島と日本の島と渡らぬ先に、七草なずな、手に摘み入れて、かうしとちやう"と唄いながら拍子を取ってはやしてから粥を煮る。 |
| 軽子(かるこ) | うなぎなど荷う役。河岸にいる。 |
| 料理屋 | 今のように台所で板前がひとりづつ小鉢につけず、大皿に盛って女中が配る。 |
| 鰻 | 昔は鰻を食べるのと、駕籠に乗るのを平民の贅沢と称した。 |
| 水屋 | 水を売って歩いた。 |
| 海鼠売り | なまこ売りがいた。 |
| 風鈴蕎麦屋 | 軒に風鈴を下げた蕎麦屋。 |
| 茶飯 | 独立した商い。 |
| 鮨売り | 3月頃から箱に入れ、"すしや小鰭のすし"と呼び歩く。ままかりではなく本来はコハダのすし。 |
| ももんじい屋 | 獣肉屋。 |
| 軍鶏屋 | しゃもや。あまり上等の客は来ない。女子供も来ない。女あるじでこの店はやっていけない。 |
| 初がつを | 4月頃から出始める。主として町人や職人が競って食べた。 |
| 松茸 | 金山に出来る松茸が将軍家の口に入った。上州太田の金山から江戸まで一昼夜でかつぎこむのが例でこの折りは各宿場の問屋は大騒ぎであった。 |
| 豆腐 | "水貝"と洒落ていうが上等の食べ物ではない。 |
| 唐人飴 | 今は飴細工という。昔は鳥の形が多かった。しかしこの唐人飴は唐人の風俗をし、打つ切りの飴ん棒を売って歩いた。子供が買うと訳の分からぬ唄をうたい変な手つきで踊って見せた。 |
| その他 | この他、雁鍋、焼き芋屋、おでん屋、鰊の蒲焼き、ふぐ、あんこう鍋、甘酒、などなど…。 |
| 五分礼 | 医者が五分礼、三分礼と稼いだ。 |
| 施療 | 貧乏人を無料で診察したもの。 |
| コロリ | コレラ。安政5年に流行、江戸で何万という人が死んだ。 |
| 種痘 | 文政頃から始まる。 |
| 薄いも | 疱瘡のあとが顔中に薄く残っているのをいう。 |
| 疝気 | 下っ腹が吊る。 |
| 清婦湯 | 頭痛の薬。 |
| 人参 | 安政3年頃、3両か5両。良い品で10両20両。 |
| 砥霜 | 劇薬。 |
| 乞食 | 乞食は芝の新網、四谷のさめが橋、日本橋、松島町、下谷の万年町などに一家庭を持ち、人別帳にも載っていた。 |
| 無宿 | 無宿は浮浪者のことで勘当とか義絶とかで久離帳に記されたもので、橋の下とか堂の縁の下とかに寝起きしていた。 |
| 河童 | 顔や身体を真っ黒に塗り、生のキュウリをかじりながら"わたしゃ葛西の源兵衛堀河童の倅でござります"と唄ってくる一種の乞食。 |
| 非人 | 浅草の善七、品川の松右衛門、深川の善三郎、四谷の久兵衛、の四人が江戸を四分し、その仕事としては南北の溜(囚人の病藍)の番をした。 この親分が非人を統制し、一定の収入をあたえていた。非人は各町家の間口に応じ、ふつうは一間十二文位ずつ五節句の日に限りとりたててよい特権があった。 金をもらうと店のかまちに「仕切」という紙に印を押したものをはっていった。 |
| 穢多 | 皮剥を職業として浅草に住んだ。この中にはなかなか金のある者がいた。武士なども竹皮の先皮を揃える必要があるので穢多と行き来した。 |
| 鳥追い | 正月15日までを鳥追いといい、その後は門附けという。三味線を弾き唄を歌う。若い女に限られていた。正月、座敷に呼ばれた祝儀は一朱くらい。 |
| 猿廻し | 町家へも行くが武家屋敷へ行って台所の祈祷などをやる。武家屋敷へ物貰いに行くのは猿回しと鳥追いだけ。その時は50文くらい貰えたらしい。 |
| 獅子舞 | 一文獅子舞は乞食。正月に来る獅子舞は乞食ではなく、若い衆の道楽。 |
| 木綿店 | 日本橋大伝馬町1.2丁目の辺り。木綿問屋が多い為。 |
| 禰宜町 | ねぎまち。江戸の日本橋・禰宜町の芝居・猿若座の前。 |
| 杉森新道 | すぎのもりしんみち。日本橋新材木町。 |
| 具足帖 | 清正公のある辺り。 |
| お玉が池 | 神田松枝町の辺りの総称。千葉周作道場あり。 |
| 三崎町 | 幕府の講武所、大名屋敷、旗本屋敷があった。 |
| 小赤壁 | しょうせきへい。お茶の水の風景。 |
| 番町 | 大名屋敷、旗本屋敷があった。 |
| 元園町 | 幕府の薬園。 |
| 四谷 | 人家が四つ(布屋・梅屋・木屋・茶屋)あるので四谷と呼びならわした。 |
| 見附 | 見附があったところ。 |
| 合羽坂下 | 嘉永初年頃、市ヶ谷合羽坂下は小さい草市が開かれていた。 |
| 不忍池浚い | 毎年2月末におこなわれた。 |
| 三味線堀 | 下谷にあった。 |
| 根岸 | 文化文政から天保初年迄、風雅の里として栄えた。水野閣老の天保の改革の際、奢侈を矯でする趣意から武家町人等の百姓地に住むことを禁じたので別荘がなくなり根岸の里もさびれた。江戸末期にはいくらか昔の姿に戻った。 |
| 北寺町 | 浅草の観音堂と隣つづきながら、すこぶるさびしい寺前町であった。 |
| 箕輪 | 吉原大門のそば。 |
| 団子坂 | 菊人形で名高い。団子を焼いて売る茶店があった。 |
| 富士裏 | 安政の頃この辺は(駒込)植木屋が多く寺も多かった。 |
| 両国 | 今の浅草六区のような感じであった。 |
| 百本杭 | よく水死体が流れ着いた。 |
| 柳原の堤 | 筋違橋から浅草橋まで10町ほどの間、高い堤が続いて柳が茂っていた。 |
| 六道の辻 | 青山にある。道が六筋になっていたところからいう。 |
| 江戸川 | 小石川と牛込の間を流れている江戸川辺には武家屋敷があり寂しいところであった。 |
| 新宿の新屋敷 | 千駄ヶ谷の一部、屋敷町。 |
| 新宿 | 絃歌の巷。 |
| 鈴ヶ森の縄手 | 一方は海、安房上総を一目に見晴らす仕置き場までの間。 |
| 川越 | 江戸との交通は頗る頻繁であった。浅草花川戸から船で隅田川荒川を上って川越へ行った。 |
| 小田原 | 箱根をひかえ宿場として発展していた。 |
| お台場 | 黒船騒ぎで品川に嘉永6年から工事にかかる。 |
| 御朱引内 | 11代将軍の文政元年に、老中と三奉行が協議の上、江戸の地図に朱線を引いて江戸がどこからどこまでかはっきりさせた。 |
| 御府内 | のちに御朱印内よりもう少し広い範囲を黒線でかこってそれより内を御府内と決めた。 浅草、銀座←朱線)渋谷、池袋の場末←)黒線 |
| 五街道 | 東海道―――品川より出る 中山道―――板橋より出る 甲州街道―――新宿より出る 奥州街道と日光街道―――宇都宮迄は同じ。千住より出る。 上記まとめて、四宿。 |
| 武士の旅 | 原則として私用で江戸を離れてはいけない。親類の不幸などの場合は支配頭に届け出て幾日間ときめて暇をもらい、関所のあるところは道中奉行から切手をもらって旅に出た。旅に実際は袴を着けなかった。 |
| 大名道中 | 諸大名が参勤で江戸をたつときは将軍家に御暇乞いの登城をする。道中は必ず本陣にとまり、表には"何の何某守"という宿札をたてる。 |
| 御用道中 | 武士が京都の二条城へ行くとか、自分の藩に用事で出かけるとか、大阪在藩の用事とか、検視に行くとかの公用で旅に出たものを御用道中という。宿は本陣か脇本陣に定められていた。 普通は一泊400文のところ御用道中は一泊96文、昼食48文、籠が1里32文、8人担ぎの蓮台渡しが96文で普通の十分の一という安さだった。 |
| 侍の旅装束 | もんぱの胴着に木綿の羊衣地の半纏をかさね、型付の股引をはき、紺足袋に草鞋をはいた。 |
| 問屋場 | 道中にあり、ここで駕籠や馬を仕立てれば、一定の賃金で次の宿まで安全に送ってくれた。 |
| 雲助 | 問屋場や宿はずれにうろついて客を引く。悪いのが多い。 |
| 酒手 | 普通16文か20文。 |
| 宿屋 | ひきこむ女がいた。ひどい宿屋では客の笠を質に入れ米などを買っていた。質屋は笠一つ75文貸した。宿料は150文。 |
| 旅籠屋 | 押入などない。 |
| 山祝い | 箱根八里を越すと、三島、または小田原で山を無事に越した祝いとして主人または若当に600文、中間に300文の祝儀を出した。 |
| 蓮台渡 | 大井川。大名の御用道中の時は乗物ごと蓮台にのせた。家来は川の中でどんなことがおきてもよいように裸になり刀を背負い、立ち泳ぎをして蓮台の廻りについていた。武士の水泳といえば立ち泳ぎに決まっていた。 |
| 水祝い | 大井川を無事に越すと、金谷、または島田で主人は若党に600文、中間に300文の祝儀を出した。 |
| 関所 | 明け六つから夕七つ迄入鉄砲に出女を厳しく取り締まった。大名の奥方や娘が人質の身をのがれ変装して江戸を立除く懸念と鉄砲が運び込まれる懸念から。東海道には箱根と荒井にあった。関所には必ず裏道があったが、盗賊や胡麻の灰や、裏道を抜けたために事件を起こした者の他は大目に見られ関所破りとはされなかった。 |
| 番所 | 関所の他にあり。関所の小さいもの。 |
| 旅 | 江戸町人の泊まりがけの旅は、草津、伊香保、箱根、熱海、江ノ島、鎌倉、金沢、成田、香取、鹿島、日光、富士登山、大山詣などで往復5日以上。入費は2分くらいから。 大山は町人職人が気軽に出かけた。 |
| 大森名物 | 麦わら細工。 |
| 横浜見物 | 異人館。遊郭、宿屋など発達して見物人が多かった。 |
| 大帰詣 | 21日が縁日で、特に正・5・9月の参詣人多い。七つ起きして江戸を出、往きを歩いて帰りは駕籠。 |
| 鎌倉名物 | 百姓が農事の暇に牛をひき人を乗せた。 |
| 能 | 町人は見なかった。 |
| 芝居町移転 | あまり芝居小屋の火災が多いので天保12年の中村座出火を機に、水野越前守は取りつぶしを決意した。ところが遠山金四郎こと遠山左衛門(北町奉行)が反対し、浅草へ移転と決まった。中村座、市村座、守田座の三座が主なもの。 |
| 芝居の開場 | 江戸の芝居は貧乏であったので、几帳面に開場することは少なかった。ただ正月・3月・11月だけはきちんとあけた。正月は藪入り、三月は御殿女中の宿下がり、十一月は顔見世であった。 |
| 芝居のはね | 五つ頃。(午後八時頃) |
| 人形芝居 | 江戸には薩摩外記座、結城孫三郎座、豊竹肥前座、豊竹新太夫座の四座があったが、天保の頃まで残ったのは前の二つ。 |
| 春場所 | 三月の大角力。両国回向院で晴天10日間うった。 |
| 夏場所 | 京都の四条河原。 |
| 秋場所 | 大阪。 |
| 冬場所 | 江戸。 |
| 花相撲 | 神社仏閣の境内で行われた。 |
| 寄席 | 文化文政に最も盛んになった。天保の大改革で衰えた。多くは二階建てで普通は二、三百。大きいところで三、四百の客を呼べば大入りとなった。木戸銭は32文くらい。天保弘化以後の見物席は48文、講談席が36文であった。 |
| 元吉原 | 寛永初年頃の吉原は日本橋区内にあった。 |
| 新吉原 | 普通なら浅草から馬道を抜けて堤へかかるか、または下谷坂本から金杉龍泉寺を通っていくか、柳橋か世間堀から船で山谷まで行くかであった。 日本堤から衣紋坂を下ると、右手に廓内に於ける禁制のことが記された高札あり、左手は見返柳、それから所詮?五十間でその両側に小さな飲み屋がある。大門まで左右十間づつ編笠茶屋がある。これは吉原へ通うものが顔を隠すために貸してくれる。あかつき傘と称して翌朝雨になった時に客が買っていく傘もこの茶店で売っていた。 大門は九ツに閉めることになっているがこれをひけ四ツと呼んでいる。大門内は医者の他は絶対に駕籠を入れない。大門を入るとすぐ会所があり警察事務を取り扱っている。大門より仲の町で左右に引き手茶屋があり、表通りが大まがき、横通りが半まがき、外まわりが小店で、小店は客の袖をつかんだら放さないというので羅生門横町と呼んだ。引き手茶屋は馴染みか紹介者がなければ相手にしなかった。ここで刀を預かった。茶店で支度したら女中がついて揚屋へ送られ女中は終始その客の座敷にいて客の用事をまかなった。女中は床入りまでついてくるので"ふられる"ことはない。茶店から付のないものがふられたのである。 |
| 浄閑寺 | 運の悪い病気にかかった廓の女は暗い部屋へ押し込まれ、薬もろくに飲まされず悶え死にする。その亡骸は粗末な早桶をかむろ一人に送られて浄閑寺へと送られた。 |
| 盆休み | 盆の13日は廓は休み。 |
| 揚代 | 遊女の揚代は昼三分、夜三分、一日一両二分。(大籬)おおまがき。 半籬が昼1分2朱、夜1分2朱、大町小店は1分から2朱、小店が2朱。 |
| 花魁 | 遊女の最上級。花魁の下に番頭新造と振袖新造とかむろがいる。新造は花魁の召使いでもあり娼妓でもあった。かむろは未来の花魁であった。 松の位というのは京都で江戸では花魁という。 |
| 吉原の仁輪加 | (にわか)盆から一ヶ月間、吉原ににわかがある。舞台をかついでいって各引手茶屋の前で踊りを演じる。 |
| 女衒 | (」ぜげん)吉原と四宿への口入れを女衒といった。 地方への口入れを山ぜげんといった。 吉原の相場はいろいろだが10年一杯50両というのもある。 |
| 初会 | 吉原で初めて客になるとそれを初会という。二度目が裏とか裏を返すとかいい、三度目で馴染みになる。 初会と裏の時はたとえ本部屋があいていても入れてくれず名代部屋へ入った。本部屋へ入れば茶碗でもなんでも花魁のものを使う。裏は初会の一倍半、馴染みになればその二倍半の揚代を出す。 |
| 赤井御門守 | (あかいごもんのかみ)」初会から名字をあかすものはなく、まして侍はお定まりの赤井御門守か何かで押し通すのが習い。 |
| 身祝い | いよいよ花魁をうけ出すときは身祝いをする。 仲の町の茶屋へは軒別に赤飯と鰹節をくばり、吉原中の芸者太鼓持ちには揃いの仕着せを出し、日頃なじみの深いものには朝から夜までにぎやかに飲み明かした。 |
| 四宿 | 吉原への入り口。品川、板橋、千住、新宿の四つ。 ここには女郎がいて、揚代はいいところで2分。小さいところで2朱。 |
| 夜鷹 | 一種の黙認された娼婦。 |
| 淫売 | 淫売は許されていなかった。 |
| 舟まんじゅう | 舟での私娼。 |
| 提重 | (さげじゅう)重箱の中にすしや駄菓子を入れて売り歩くが、それだけが目的ではない。 |
| 陰間 | (かげま)男娼の一種。 |
| 水茶屋 | 神明前や両国にあった。休憩所で料理や酒はなく、麦湯や桜湯を飲ませる。 |
| 茶店 | 緒方にあり、茶だけを出していた。 |
| 飯盛 | 遊女のこと。一般には三島女郎とか岡崎女郎とかいっていた。たいていは600文で、神奈川の飯盛は700文。 |
| くも | 文化文政頃には蜘蛛をかけあわせることが流行った。天保の改革ですっかり止み、幕末になりまたそろそろ始まった。軍鶏は下等の人間の行うことで、くもは上品の方になっていた。 |
| 尺八 | 虚無僧以外はふくことを禁じられ、余人は尺八をふくときは總本寺か控え番所へ届け出た。 |
| 船宿 | 舟は柳橋か四間堀の船宿から仕立てる。 猪牙なら一人船頭で300文、二人なら600文。屋形船なら一人で600文。祝儀が100文。 船宿での逢い引きはむつかしかったので舟を出し、首尾の松あたりで舟をつなぎ、船頭に2朱くらいやって席を外させて逢った。 |
| 涼み船 | 両国を中心に、三叉から吾妻橋辺りを漕いでいた。(屋形船) |
| 川開き | 享保年間に始まり、例年5月28日と決まっていた。この川開きの大花火から8月28日の打ち止めの花火まで満三ヶ月、舟遊び夕涼みが一般に行われた。 |
| 潮干狩り | 3月3日頃が一番よいとされ、芝浦、高輪、品川沖、佃島沖、洲崎、中川沖などへ行った。 |
| 芸者 | 吉原と櫓下の芸者だけに限られ、他は酌女といった。 顔などより本当の芸がものをいった。仲の町の芸者は座敷に出、横町の芸者は店口の客を相手にした。 吉原芸者は白襟、三味線は継ぎ棹でなしに持ち歩き。他の土地のものは薄水色の襟、三味線は二つ折りにし箱屋が持ち歩いた。線香は昼1分。夜1分。祝儀は1分から2朱。 |
| 酌人 | 清元とか常磐津の師匠など、宴席へ呼ばれていくもの。 |
| 天保の改革 | 倹約の觸。おふれ身分ある者の他は絹織物を身につけないこと。この他遊芸は厳しく取り締まり、文武に励むよう定められた。 |
| 花見 | 上野、向島、御殿山、飛鳥山、吉原仲の町。 |
| 梅見 | 亀戸梅屋敷の川龍梅、大森の小村井、角筈の銀世界。 |
| 月見 | 13夜と15夜。13夜には栗を15夜には団子を供えた。どちらか片方だけの月見にすることを忌んだ。 |
| 菊人形 | 文化9年の秋巣鴨に始まる。安政3年、団子坂で流行る。 |
| 三大祭 | 京の祇園祭、大阪の天満祭り、江戸の山王祭。江戸の三大祭りは6月14.15日の神田祭り。 |
| 山王祭 | 俗に上覧祭といい、将軍家上覧に供えて盛大だった。江戸繁栄の盛大を諸大名にしめす一つの手段とされていた。 |
| 川崎大師 | 厄除け大師。11代将軍は参詣された。 |
| 虚無僧 | 禅宗の一派。これが一種有力な階級となったのは4代将軍の頃。 |
| 初午 | 2月初めの午の日を初午という。江戸には稲荷の社が非常にたくさんあった。 |
| 稲荷 | 王子、妻恋、日比谷、烏森、九郎助、真崎など有名。豊川稲荷は大岡越前守の屋敷内にあったので、毎月午の日には門を開け一般の参詣を許した。 |
| 二十六夜待ち | 7月26日の月は午前1時頃出るので出がけに三尊の姿が表れるというので敷ござをひいて月の出を待った。 |
| 逢魔が時 | (おうまがとき)毎日暮れ六ツ。 |
| 影をふむ遊び | かげふみ。"影や道祖(陸)神、13夜のぼた餅"とうたって秋の夜、月影をふんで遊ぶ。(子供) |
| 君と寝ようか | "君と寝やろか五千石とろか、なんの五千石君と寝よ" 廓で唄いだしたもの。 |
| ぼんぼん盆は | 盆唄。"ぼんぼん盆はけう昨日ばかり、明日は嫁のしおれ草" |
| 狐つき | 神経衰弱の一種。 |
| 雷よけ | 四万六千日のトウモロコシ。 |
| 弁天 | 恋の勝利を祈る。 |
| 丙午 | (ひのえうま)弘化三年は丙午であった。丙午の年に生まれた女は男を喰い殺すと信じられていた。 |
| 火伏せ | 橙に龍という字を書いて大晦日の晩に縁の下に投げ込んでおくと自火、類焼にあわぬといわれていた。 |
| 火災の前兆 | 鶏の宵鳴き。 |
| オランダ人 | 5年に一度ずつ参府して将軍にお目通りを許されていた。2月の25日頃江戸に着き3月上旬に登城するのが習い。日本橋の長崎屋源右衛門方に宿をとることに決めてあった。 |
| 朝鮮屏風 | 我が国から朝鮮に送る屏風。将軍一代の間に必ず朝鮮から来聘使が来た。人参とか蝋とかを持ってきた。この屏風の絵を描くのは奥絵師の役で徳川の頃は狩野一派であった。本来は通信使。 |
| ズウフラ | ルウフルが本当の名。遠方の人を呼ぶ機械。 |
| 公使館 | アメリカは麻布の善福寺、フランスは三田の済海寺、オランダは伊皿子の長応寺、プロシャは赤羽の接遇所、ロシアは三田の大中寺。 |
| 領事館 | アメリカは麻布善福寺に安政5年。 |
| 水戸光圀 | 30才の頃国史編纂を思い立ち、小石川の邸内に支局を設け、これを彰考館と名付けた。寛文12年、45才の時である。 |
| 藤枝外記 | 藤枝外記と、大菱屋綾衣との心中は"五千石とろか"の唄で有名。 |
| 大岡越前守 | (忠相ただすけ)8代将軍吉宗に用いられ寺社奉行となり1万石の大名まで出世した。享保2年〜元文元年まで20年もつとめている。 |
| 六法組 | 旗本仲間の暴れ者。 |
| 薄雲 | 薄雲と高尾が吉原遊女の代表のように言われていた。 |
| 片降り片照り | 文政4年の江戸には雨が少なかった。正月から7月までわずか21度しか降らなかった。7月の七夕の夜ひさしぶりに雨があり、それを口切りに雨が多くなった。こういう年は片降り片照りという。 |
| 返し泥棒 | いったん人にやったものを返せというのを返し泥棒という。 |
| あがり物 | 官に没収されたもの。 |
| 行燈建 | あんどんだて。上下ともに一間しかないのをあんどん建てという。 |
| 年始の服装 | 武士も町人も裃。町人は一本差しで年玉の半紙や手拭いなど入れた大風呂敷を包んだ箱を小僧の首にかけるか、皮羽織を着た仕事師を供に歩いた。 |
| 寒紅 | 寒の水でつくった紅はいつまでも黒く変色しないので、女は寒中の丑の日に争って買った。 |
| 人妻 | 眉を剃り、歯を染めていた。 |
| 大森鬢 | でこぼこ頭。 |
| 紺足袋 | 裏も紺。裏白は八丁堀の与力同心がはいていたのみ。 |
| 雁 | 雁の列は正しいものだが、列を乱して飛ぶときは伏兵ありと人が言う。 |
| こうもり | 江戸時代にはずいぶんたくさんいたらしい。人の生き血を吸ったりした。 |
| 白魚 | 家康が江戸に入国してから白魚は御留魚となり3代将軍の時、禁がとけた。が、他の魚と同様にはあつかわなかった。 |
| 鯨 | 享保19年、行徳の浜に流れ着いた。 |
| 山椒の魚 | 川や古池にいた。 |
| 正月 | 元旦 ○ 大名の登城(ただし御三家と譜代大名に限る)六ツ半登城。服装は装束を着ける。平常は官位はどうでもよいが装束を着けるときは官位に依る。 ○ 町家は閉めて休む。年始にも出ない。 ○ 万歳が来る。 ○ 鳥追い獅子舞太神楽白酒売りが来る。 2日 ○ 外様大名の登城。御用商人も年始に行く。 ○ 町人はこの日から七草ぐらいの間に年始回りをする。 ○ 吉原でも花魁が美しく着飾って引手茶屋を年始に廻る。 ○ 魚河岸の初売り。 ○ 出初め。 ○ 弾初め。 ○ 書初め ○ 初荷 ○ 宝舟を売りに来る。 3日 ○ 大名の嫡子が登城する。(熨斗目に長袴) ○ 旗本は組組によって区別され元旦・二日・三日とわけて登城する。 6日 ○ 6日年越しといって雑煮を祝い門松をとる。 ○ 神官僧侶山伏の由緒あるものが登城する。遠方からも出てくる。 7日 ○ 7日正月といい七草粥を祝う。 ○ 総登城。 11日 ○ 具足開き。(鏡開きともいう) ○ 町家では蔵開き。 14日 ○ 14日年越しといい雑煮を祝い御飾りをとる。 15日 ○ 小正月という。 ○ 15日粥といい小豆粥を食べる。 ○ 三芝居の初日。 16日 ○ 藪入り。 17日 ○ 三助の貰い湯。 20日 ○ 20正月で雑煮を祝う。 24日 ○ 亀井戸のうそかえ(文政三年頃から) 25日 ○ 初天神。 ○ 初日の出。 ○年賀帳(武家の玄関に机を置き、硯と年賀帳を置く) |
| 2月 | 4日 ○ 泉岳寺祭り。 18日 ○ 彼岸(団子、萩の餅、精進すしなど仏に供える) 24日 ○ 24.5日から雛市。 25日 ○ この頃からオランダ人が長崎屋へ泊まり、3月2日の登城を待つ。 この他、2月には初午がある。 |
| 3月 | 1日 ○ 吉原の夜桜。この日から三月いっぱい。 3日 ○ 武家は登城。 ○ 雛祭りを祝う。 5日 ○ 一年契約の奉公人の出替わり。 17.18日 ○ 三社祭。 この他、潮干狩り、宿下がり、すし売り、春場所など。 |
| 4月 | 1日 ○ 衣替え。この日から5月4日まで袷。 8日 ○ ○仏会(方々の寺で甘茶の接待) 20日 ○ 人形市。この頃から出る。 この月に初鰹出る。 |
| 5月 | 5日 ○ 節句。この日から単。 ○ 大名総登城。 ○ 菖蒲太刀を売りに来る。 ○ 銭湯は菖蒲湯。 ○ 町家では幟を立て、軒に菖蒲を葺く。 28日 ○ 両国川開き。 |
| 6月 | 1日 ○ 氷献上。加賀様より将軍へ(雪で作ったもの) 7日 ○ 19日まで品川天王様の祭り。 15日 ○ 山王祭。 30日 ○ この日から盆提灯を提げる。 この他、土用入、丑の日、虫干しなど。 |
| 7月 | 2日 ○ 13日まで土用干し。 7日 ○ 七夕。江戸では屋根の上に立てる。 9,10日 ○ 四万六千日。雷よけ唐もろこし、青ほうづき。 13日 ○ 夕方までに寺詣、迎え火をたく。盆中は精進のこと。 16日 ○ 送り火をたく。盆の藪入り。 この月中、大川で舟施餓鬼を行う。 |
| 8月 | 1日 ○ 八朔の総登城ご祝儀。白帷子を着る。吉原の花魁は白小袖を着る。 15日 ○月見。 |
| 9月 | 1日 ○ 1日から8日まで袷を着る。 9日 ○ この日から綿入れを着る。 ○ 菊の節句。武家方は総登城。 ○ 9日から19日まで神田明神祭。 11日 ○ 11日から21日まで芝明神祭。 13日 ○13夜。 |
| 10月 | 上亥 ○最初の亥の日に登城。この日が武士の櫨開きで炬燵を開ける。町家は第二の亥の日。 |
| 11月 | 1日 ○ 顔見世初日。 8日 ○ 鞴祭(ふいごまつり) 15日 ○ 七五三の祝い。 冬至には白魚祭を行う。 |
| 12月 | 節分 ○ 寒明けの翌日。豆まき。 13日 ○ 煤掃き。 14日 ○ 深川の年の市(年の市の始まり) 17.18日 ○ 浅草の観音市。(羽子板は出ない) このあと諸方に市が立つ。 20日 ○ 歳暮に廻る。 26日 ○ 門松を建てる。 28日 ○ 餅つき。 30日 ○ 大晦日。昔は31日はない。 ○ 武家では組頭のところへ挨拶に行く。 ○ 王子の稲荷参詣(大晦日には関東の狐が全部ここに集まると言われていた) この他、月のはじめに寒見舞といって貴賤ともに品物を贈答した。 |
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江戸時代――― |