大阪は、昔大きな海だった!
今から、一万年前大阪は、森之宮遺跡が語るように海が広がり、貝塚がその痕跡を語っています。
大阪市の西淀川区、港区、此花区、大正区などはもちろん、陸地としてありませんでした。
ただ、上町台地が、南から崇禅時まで、半島状に伸び、西は今の瀬戸内海に面し、上町台地の東側
は生駒山脈の手前、今の東大阪、八尾市あたりを内海として河内海がありました。

その河内海に大和川等が流れ込み陸地ができあがってきたのです。
その河内海もだんだん土砂が運ばれ、河内潟となり、内海と外海の潮の干潮が、とても激しかった
ため、「なみはや」「難波」の語源のもとになったそうです。
また、古事記、仁徳天皇の時代、この内海の海流の流れを良くするために、上町台地に堀江という
運河を掘削した記録があります。 但し、この堀江は、どこに掘られたか現在では不明です、大阪
城北側の、大川のあたりという説はありますが。
太古の昔から大阪で陸地だったのは上町台地で、時を経てその東西に陸地が広がっていきました。
奈良時代には、上町台地から西へ、今の御堂筋のあたりに海岸線がきていたとのことです。
また、四天王寺西鳥居や夕陽丘から、照り輝く海面に夕日が沈みゆく様が、(今では海岸線は遠い
まったくの陸地ですが)、さながら極楽浄土への入口に昔の人は見取ったのでしょう。
古代の大阪の海岸のあらましを詠った詠が、万葉集に残っています。
あり通ふ 難波宮は 海近み 海人娘子らが 乗れる舟みゆ
(万葉集、巻6−1063)
難波潟 潮干に出でて 玉藻刈る 海人娘子ども 汝が名告らさめ
(万葉集、巻9−1726)丹比真人
上町台地の西側を見渡せば、三津の崎、住吉、得名津の崎、淡路の野島の崎、武庫の泊、明石、万葉
集の舞台の海原が広がっていたのでしょう。
また、大和から、難波にぬける直越えの道を生駒の山を越えたとき、内海の難波潟の海原が目に入って
きたのでしょう。
直越えの この道にてし おしてるや 難波の海と 名付けけらしも
(万葉集、巻6−977)神社忌寸老麻呂
短歌の枕詞として難波の言葉には、「おしてるや」がつくそうです。 このことは、海原に太陽が、また
は夕日が照り輝くさまを思い起こせます。
下さい。

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