どんな都(みやこ)だったのだろう難波宮は (その2

·  難波宮公園大極殿礎石 と朱雀門(平城京)との合成です

 


そもそも、難波宮跡が、法円坂付近に発見するきっかけとなったのは、山根徳太郎といわれる方が、戦前、ある方から大阪城南の法円坂あたりで土中に埋まってたという古代の瓦をみせてもらったことが契機でした。

 彼は伝説の難波の宮の手懸りが、その法円坂付近にあるのではないかと思ったのでしょう。

その後、戦後になって彼が大阪市大を退職後、戦後復興の時期に工事をしていた法円坂住宅建設中の現場を何度も足を運んだそうです。

そして、その土中から、拾われた不思議な形をした瓦のわずかなかけらを手にしたときでした。 

彼は、ここに、伝説の難波宮がこの場所に存在したことを確信したのでした。  その不思議な形をした古代瓦は難波の宮の鴟尾の瓦の一部分だったのです。 

ちいさな瓦の破片から、あの巨大な鴟尾を思い描き、そして、その鴟尾が難波の宮の大きな建造物に使われていた様を推理し、証拠確証を集めていったのでしょう。

 藤原宮の中のにあった井戸の清らかさを歌った古歌が、藤原宮の場所が分からなくなっていたのに、発掘発見の場所確定のきっかけとなったのと同じく、なんと浪漫があることなのでしょう。

  しかし、実際発見するまでは難波宮の場所は謎とされてきました。

現代の大阪の地名を考えてみますと、「難波長柄豊崎宮」の「長柄」や「豊崎」の地名は別の場所にありますし、法円坂よりも西側に「南森町」という地名があるがこの難波宮(もしくは、孝徳天皇を祀る豊崎神社)の南にある森という意味だったそうです。

戦前には、「たとえ様もなくすぐれたもの(日本書紀)」とかかれた難波宮の実在も危ぶまれていました。

大阪城の南にあった、もと城下屋敷のだった軍の第三工廠跡の、空襲の焼け野原の地面深くに眠っていたのです。

戦国時代、豊臣秀吉が大阪城を石山本願寺跡につくったとき、生玉神社や鵲宮(森之宮神社)は、大阪城付近から移ったといわれています。  この「石山(石が沢山あった山からのいわれらしい、古墳陵だった可能性もある)」付近に難波宮を始めおおきな杜が古代からあったことでしょう。

また、大阪上町台地で、同じく古くからの存在していた「四天王寺」(荒陵寺)は、推古天皇の時代、最初は、玉造の難波の内海に面した海岸近く(稜線)に建てられたが、侵食が激しく、やがて、現在の場所に建て直された記載があるそうです。  それ以後、伽藍の配置立地場所は、ずっと同じ場所だそうです。

 

  (実は、このページを書くにあたって、大阪城内にある、大阪市立博物館の、難波宮コーナの山根徳太郎氏のビデオを見て来ました。  氏の難波宮の発見の努力と同じく、保存への努力は、大変だったことが偲ばれました。)

 


 

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