どんな都(みやこ)だったのだろう難波宮は(その1)
前期難波宮は、大化の改新(645)の後、孝徳天皇が、即位し、飛鳥板葺宮から難波長柄豊
崎宮として、この難波宮に都を定めました。
この難波宮は中国の長安にならい日本で初めての本格的な条里制をひいた都がつくられました。
大化の改新から、改新の詔を発令し当時の大和朝廷は、豪族衆議制から、後の大宝律令へつな
がる律令制を取入れた、大王(天皇)集権の国家づくりを目指そうとしていました。
当時、この難波の地は百済、新羅、高句麗の三韓と唐との海外交流の重要な拠点だったのです。
そして、その大陸から多くの渡来人が、一族を率いて海を渡ってきました。
この一昔の時代には、仏教伝来と、それに続く聖徳太子の時代、法隆寺、四天王寺に渡来人の
伝える新技術が、華やかな光彩を放っていました。
僕の特に好きな日本史の時代が三つあります。一つは、戦国時代、群雄割拠の時代から天下統
一までの時代背景の中で、諸侯はどのような選択を行なって生き残ってきたのか、二つ目は幕末
から明治まで、武士社会の封建制から明治の近代へと、志士の個人の活動の群像、そして最後の
三つ目は、謎の多い古代史の中で、国家としてのダイナミックな成長活動過程を観せ、煌びやか
な文化を現代でも垣間見ることのできる、飛鳥白鳳時代がとても心惹かれます。
そして、この大阪の地(難波、難波津、)は、その当時より国際的にも重要な役割を果たした
土地だったそうだとわかってきました。
この難波宮公園から東には、玉造稲荷神社があり、昔ここで、玉作岡といってくがたまを造っ
ていた一帯があったと伝えられています。
また、この南、谷町四町目の近所にある、細工谷というところでは、和同開称の鋳造場所があ
ったことを示す枝銭が発掘され、また飛鳥池遺跡で話題になった天武富本銭もみつかっています。
そしてこの細工谷のすぐ東側には堂芝廃寺跡があり飛鳥時代に古代の百済寺跡かと推測されて
います。
このように、難波宮公園と、その北側にある大阪城を北端にする、上町台地は、大阪の歴史ば
かりではなく、日本の古代史において大きな舞台であったことを私には思い起こさせます。
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