箕輪城
MINOWA
美郷町東明屋

信玄が上野攻略の最大目標とした城。長野氏は箕輪城を中心にした広大な城砦群を形成していたが、それらの支城を次々と落とされ、永録4年(諸説アリ)城主・
長野業政が病死した後、当時わずか14(16?)歳の業盛が跡を継ぐ。父の遺言を守り、敵に屈することなく奮戦するが倉賀野城が落ちた翌年の永録9年、遂に落城。長野氏は一族揃って自刃したと言う。
信玄は
内藤昌豊、昌月(昌豊嫡男)を城代とし、約16年支配した。天正10年、武田氏が滅亡すると織田信長が滝川一益を厩橋城に入れ箕輪城を治下においたが、本能寺の変で信長が倒れると北条氏邦が城主となって約8年在城。天正8年(1590)、徳川家康の関東入国により、重臣・井伊直政が12万石を与えられ箕輪城主になる。(この時城の大改修が行われている)。直政は8年在城した後、高崎に移ることになり箕輪城は廃城(慶長3年・1598)となる。
長野業政・業盛親子は名将と称えられ、しかも美男の家系(笑)だったとか(平城天皇の孫・在原業平の子孫?)家臣にも『長野16人槍』と言われた豪傑が揃っています。(新陰流の創始者・上泉信綱とか…)何となく業盛の最期が、仁科盛信のそれとダブってしまいます…歴史は繰り返すってやつでしょうか。

伝・長野業盛の墓(群馬町井出)⇒
大円寺というお寺で案内図をくれます。
お寺の境内ではなくちょっと離れた場所にあります。

保渡田城址
HODOTA
群馬郡群馬町保渡田。箕輪城の南東約3キロの平坦地にある。永禄年間に内藤昌豊が築城。箕輪城主だった内藤氏が住まい、ここから毎日箕輪城に通ったそうです。現在本丸跡は集会所の広場になっており、天守山と言われる矢倉台跡(写真)の小丘には庚申塚が並んでいます。本丸北側中央に虎口(枡形?)があり、そこから北城(二の丸)に続く。天守山のある南側が追手。
…が
城跡を示す看板も何も残っていないうえ、遺構も畑と住宅地に変わってしまっているのでちょっと分かりにくいです。
善龍寺と内藤塚
群馬郡箕郷町生原。善龍寺は開祖が内藤昌月、昌豊を勧進開祖とする曹洞宗の寺。設楽原の戦いで討ち死にした昌豊の首級を、家臣の大熊備前が介錯して持ち帰り葬った…と言われている。
善龍寺にはあちこちに武田菱と内藤家の家紋であるさがり藤の紋が並んでいます。
かつては昌豊の位牌もあったそうですが火事で焼失してしまったそうです(T_T)




沼田城
NUMATA
沼田市西倉内町
沼田城鐘楼 天正8年、勝頼の時代に真田昌幸が攻略。北条氏から武田の支配に移る。武田氏滅亡後、織田・真田・北条時代を経て昌幸の子の信之の時代に5層の天守閣を築いたが、元和元年に徳川幕府に沼田領三万石を没収され城も取り壊された。
         ◆
現在本丸・二の丸跡が沼田公園となっていて、城址…というよりはホントに公園。鐘楼もステンレス?かなんかでイマイチ情緒がない…発掘調査も行われていましたが、どうなんでしょ?
平八岩
沼田城奪還を謀った沼田平八郎を謀殺した昌幸が
その首実検をしたという『平八岩』




名胡桃城
NAKURUMI
月夜野町下津

土橋跡

二の丸堀
現在は、名胡桃城址の真ん中を国道17号線が分断した状態です;三の丸〜本丸に至る方には所々表示の石版が置かれていて遺構も割と残っています。反対側は深い谷になっていてこの城がどう言うところにあるのか再認識しました…(道路のせいで一見平城みたいな気がするけど実は河川との比高50mの崖端城;)
天正6年、沼田城を手に入れた北条氏が、翌年この名胡桃城(武田勝頼のもとで真田昌幸が支配)を攻めたが失敗。しかし更にその翌年(天正8年)真田昌幸はここから攻め出て難なく沼田城を攻略。この地方の領地をほぼ手中に収める。名胡桃は上野における真田の拠点・岩櫃城と沼田城の中継点となる。その後、秀吉の時代に、沼田は北条に、名胡桃は真田に分けられるが北条軍が勝手に名胡桃城を乗っ取ってしまい、城将・鈴木主水が自刃。その事を聞いた秀吉が怒り、小田原征伐、北条氏滅亡のきっかけとなった。