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三の丸堀 |

二の丸橋 |
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文献では永禄10〜12年、武田信玄の駿河侵攻(永禄11)・小田原城攻め(永禄12)に際して西方の防備のために築城されたとされていた。…がそれでは間に合わないんじゃ…と思ったら、発掘調査の結果から判断すると、どうも時期的に天文14年(1545)武田の援軍を得て駿東へ侵攻した今川義元に、境の城・長久保城を陥とされたのが築城のきっかけらしい。その頃にまず本丸を中心とした曲輪群が作られ、信玄の駿河侵攻の永禄11年以降に西の丸・西櫓・西木戸口などが、更に天正15年以降、豊臣と不仲になり岱崎出丸・出丸堀・三の丸堀(未完成多し)などが増築されたのだろう。氏康は俗に『箱根十城』と言われる城砦群を箱根連山に配し中心となる根城を山中と鷹ノ須に築く。山中城は箱根以西の北条の支城や砦と、小田原本城を結ぶ『つなぎの城』の役割を担っていた。
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障子堀。なかなか壮観で感動〜。
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山中城と言えば北条流築城の特徴の一つである障子堀(←しょうじぼり)と畝堀(うねぼり→)で有名。どちらも空堀の中にローム層を掘り残して作られたもので、歩いて渡るに滑りやすく、また落ちたら這い上がれない深さと傾斜で出来ている。雨水や湧き水を溜める事が出来、用水池としても活用されていた。曲輪は堀で囲まれているので土橋や架橋もあちこちに見られる。
畝堀⇒。確かに傾斜が急です。 |

岱崎(だいさき)出丸の一の堀 |
天正18年(1590)3月1日。秀吉は北条氏政討伐のため軍勢20万余を率いて京都を出発。28日、秀吉は家康と共に長久保城に入る。山中攻めの総大将は豊臣秀次。以下中村一氏、堀尾吉晴、山内一豊、一柳直末。山中城は松田康長(松田憲秀の甥)が玉縄城の北条氏勝の援軍と併せて4000の兵で守っていた。翌29日城攻めが開始される。まず副将間宮豊前守康俊とその一族が守る岱崎出丸を陥落させ、そのまま三の丸、二の丸を陥とす。松田康長は残兵200とともに本丸天守台にこもるが遂に壮絶な討ち死を遂げる。戦闘開始時間はハッキリしないが11時前には落城したというのでいずれにせよ堅城を誇った山中城も10倍余の兵力の前には半日守りきるのがやっとだったと思われる。この時戦死した北条・豊臣の武将8人の墓が三の丸跡の宗閑寺にある。
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本丸 |
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とにかく広い!です。一通り見て歩くと2時間くらいかかります。史跡公園としてきちんと整備され、説明板もちゃんとあるので、お弁当持って遠足気分で行くと良いかも。晴れた日には富士山も綺麗ですし400年前の城の遺構がそのまま復元されている、石を使わない土だけの山城は全国的にも珍しいということで、オススメです!入り口近くの売店にパンフレットも置いてます。
また合戦のあった旧暦の3月29日を記念して、5月の第3日曜日に『山中城まつり』があり、北条・豊臣の戦いを再現した模擬合戦なども行われるそうです。 |