長久保城 三枚橋城 戸倉城 泉頭城


長久保城
NAGAKUBO
駿東郡長泉町下長窪
長久保城は文明24年(1482)、中駿の豪族葛山氏が曽我領沼津郷に侵攻した際に築いたが始まりだという。天文年間、北条氏と今川氏の争いの際に北条・葛山氏の拠点となる。天文14年の攻防戦の後、和議が成立。長久保城は今川氏の持城となるが管理は引き続き葛山氏に任されていたらしい。永禄11年、武田の駿河侵攻が始まり、葛山氏が武田に加わると北条氏は同城に清水太郎左衛門を入れ、守りを固める。元亀3年以降この辺りは武田の支配下となるが、長久保城に三日月堀が付け加えられたのはこの時か。天正10年、武田氏が滅亡すると徳川の手に渡り、家康配下の牧野康成が城主になる。慶長の始め沼津城主中村一栄が管理するが中村氏の転封以後廃城となった。城址一帯は昭和30年代後半からの土取り工事によって一の曲輪と東出丸が消滅。更に国道246号線の貫通、小学校の建設などによって現在殆どの遺構は失われている。発掘調査の際には畝空堀、三日月堀、内郭址、外郭址、土塁址などが見つかった。畝空堀の遺構の様子から、築城は主に北条氏に拠ったと思われる。
場所が良く分らなかったので、近くのショッピングセンターの駐車場で車を降りて探そう…と思ったら駐車場の目の前にありました!(笑)。国道246号沿いにぽつーんと城址の碑。←実はこの碑の前は横断歩道です。




三枚橋城
SANMAIBASHI
沼津市大手町

沼津中央公園に建つ沼津城(三枚橋城)本丸址の碑
天正7〜8年(1579〜80)頃に武田勝頼によって築城された。上杉謙信の跡目争いで勝頼が北条家から養子に行った景虎を援護しなかった為、武田と北条の仲が悪化したためだと言う。城将として置かれたのは海津城代・高坂弾正の次男、高坂源五郎。勝頼の築城を聞いた北条氏政は大軍を率いて出陣、黄瀬川で対峙したが合戦には至らず、勝頼は武田信豊・高坂源五郎・城伊庵を残し家康に向かった。北条方はこの隙に城を攻撃するが残留した兵でこれを退ける。同3月には長浜・重須を拠点とする武田・北条の水軍による海戦が駿河湾でおこり、勝頼は浮島が原にて観戦。この時千本松原が切り払われたという。天正8年の暮れ北条方の徳倉城主笠原新六郎が武田に内通、これに対抗した北条氏政との間で戸倉合戦が起こる。しかし『北条五代記』には永禄12年氏康が駿河に出陣した際、三枚橋は北条の持ち城となっており、同年、信玄が再度進入した時は三枚橋・興国寺城から攻撃したとある。蒲原落城の時信玄に取り戻されたとあり、元亀元年に普請されている史料もあるので築城年代は明らかではないらしい。

江戸時代には沼津城下町として栄え、今は役場や公共機関が集まってるとこなので街中に戦国期の城の遺構を見ることは難しいのですが、近くの上土町の通りに本丸入り口付近の石垣が一部復元→されています…。ホントに一部ですが…;;




戸倉城
TOKURA
駿東郡清水町中徳倉

現在清水町の本城山公園として整備され、展望台(キノコ型・笑)のあるところが主曲輪である。
文明年間(1469〜87)今川氏がここ城を築いた。その後北条氏が伊豆を守る為韮山城の支城として修復。永禄12年、武田・北条の抗争が激化すると北条氏尭が城主となる。天正7年(1579)武田勝頼が沼津三枚橋城を拠点とすると、伊豆を守る最前線となり天正9年には武田・北条の間で戸倉合戦が起こる。城将笠原(松田)新六郎が武田に内通し城を明渡してしまったからである。翌年武田が滅びると新六郎は武田の兵300を斬って再び北条に降ったが許されず追放された。
本城山。この上に本城山公園がある。公園にしては登るのがしんどい;主曲輪の公園が工事中だったのであまりよく見れませんでした…

展望台から狩野川を望む。
この先に舟付場があったらしい。




泉頭城
IZUMIGASHIRA
駿東郡清水町柿田

日本の名水百選の一つに選ばれた清水町柿田川の水源地泉頭に築かれた平城。遺構の殆どは道路・住宅等の建設によって失われている。清水町玉川にある福泉寺の山門と墓地に土塁の一部が残る。ここは城将多目周防守の館址であり、その墓といわれる五輪塔がある。
現在西曲輪と舟付場が柿田川公園、主曲輪が『泉ノ館』となっている。(ここで水も持ち帰れますvv)
『泉ノ館』と広〜い駐車場が主曲輪。かなり有名らしく、(私は知りませんでしたが…)大型バスや車でいっぱい。名水ってそんなに人気あるものなんだ…
弘治年間(1555〜58)北条氏綱によって築城された。多目周防守、荒川清兵衛が守り、永禄12年武田信玄の駿河侵攻の時や天正8年三枚橋城に勝頼が入った際には戸倉城と共に伊豆を守る最前線となる。天正9年、戸倉城を落とした勝頼の書状に安井次大夫と戸倉州衆が泉頭城から出撃してきた兵を押し戻し近隣の村々を焼き払ったとある。天正18年、豊臣秀吉の小田原征伐の時、兵が引き払い廃城となるがその後慶長19年(1614)家康が隠居の地として再建しようとしたがその死によって中止となった。