||||| 群馬県 |||||
この辺はお城のページなどにも写真があります〜
JR上越線沼田駅下車
●沼田城●
かつて上杉氏が関東進出の拠点としていた城。謙信の死後北条氏と武田(勝頼)の間で取り合いになり昌幸が調略で落とす。武田滅亡後一時期織田の手に渡るが本能寺の変後、再び真田に。しかし北条氏も手を伸ばして来たため、昌幸は徳川に臣従。その後上田城を築き昌幸は上田、沼田には長男・信之を置く。だが徳川と北条の争いが起こり、和睦の条件として北条に沼田を渡すことに。これに反発した昌幸は徳川を離反、上杉→豊臣を頼る。秀吉の仲裁で一時北条に渡った沼田城だったが北条が勝手に真田の名胡桃城を奪ったことから『小田原征伐』に至り、再び真田の手に戻る。関ヶ原後も真田家に安堵され真田家は上田(後に松代に移封)と沼田を領することになる。(但し沼田真田藩は元和元年に改易される)

JR吾妻線群馬原町駅下車

●顕徳寺●
天正十年、敗色濃い武田勝頼を岩櫃に迎える際、昌幸が用意した館。後に『潜龍院』という寺になったが元和2年、真田家家臣・出浦対馬守が移築して顕徳寺とした。後に火災にあったが原町郡代屋敷だった真田家の陣屋の建物を申し受けて再建された。

●岩櫃城●
岩櫃城永録6年、武田の武将として真田幸隆が上杉の斎藤憲広から奪った城。その際味方につけ、岩櫃城代となっていた海野幸光・輝幸兄弟と、代替わりした昌幸が争いになり昌幸は二人を謀殺、以後岩櫃は真田家の支配となる。慶長19年、関ヶ原以来徳川に従っていた信之は、大阪の陣に際し臣従の証として自らの手で岩櫃城を破棄した。

JR上越線後閑駅下車

●名胡桃城●
元々沼田の支城として作られたものらしい。昌幸が改修、沼田攻略の拠点とした。秀吉の時代、沼田は北条・名胡桃は真田、と取り決めがなされたが北条が名胡桃を謀略で奪ったことから秀吉が怒り小田原征伐へと発展。北条滅亡後二つの城は真田氏の領することになった。

||||| 大阪・和歌山 |||||
真田幸村像
↓三光神社の真田の抜け穴と幸村像↑
真田の抜け穴
安居神社
真田幸村戦死の地・安居神社
●大阪城●
豊臣秀吉が石山本願寺跡に築いた城。昌幸が秀吉との接近をはかり上杉家の人質だった幸村は大阪城に送られ従五位下・左衛門佐の官位と豊臣姓を賜り直臣として秀吉に仕える。関ヶ原の合戦後、九度山に蟄居していた幸村は慶長19年、秀頼の要請で再び大阪城へ。家康と最後の決戦に臨む。

大阪環状線玉造駅下車
●宰相山公園・三光神社●
宰相山公園は真田丸を攻撃した前田利常(加賀宰相)の陣があったところ。その一角に『三光神社』があり、真田幸村の像と『真田の抜け穴跡』がある。徳川方が大阪城の真下まで穴を掘り、爆薬を仕掛けようとしたとかしないとか…?
●真田丸跡●
幸村が築いた出城。…だが現在は遺構は残ってない様だ。今は真田山公園があり学校や住宅地がある。

地下鉄谷町線天王寺駅下車

●安居神社●
幸村の戦没地。元和元年・五月七日、茶臼山の本陣を下り先鋒の松平忠直隊を撃破、徳川本陣に肉迫した幸村隊だったが安居神社境内の松の根方で休んでいる時に忠直隊の鉄砲頭・西尾久作に首を取られた。

安居神社の幸村の碑
南海高野線九度山駅下車
●真田庵(善名称院)●
昌幸・幸村親子の蟄居屋敷跡。境内に昌幸の墓・幸村・大助の供養塔、真田資料宝物館がある。

南海高野線極楽橋駅下車
●高野山蓮華定院●
昌幸・幸村親子が九度山に蟄居するまで滞在していた。滞在中の部屋は『上段の間』として親子の遺品と共に保存され、宝物館として一般公開されている。境内裏手に信之の供養塔がある。
真田庵
||| 白石 |||
当信寺
JR東北本線白石下車

●当信寺●
片倉小十郎重長の妻となってここ白石に来た真田幸村の遺児・阿梅と大八の墓がある。

左が阿梅さんの半跏像。何となく原型はとどめているが歯痛に効くといわれて削られてしまったそうだ…