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![]() 三枝勘解由左衛門尉守友 さいぐさかげゆざえもんのじょうもりとも
1538〜1575。三枝氏は甲斐源氏より古く、日本書紀の福草部の姓氏録に『三枝連』の名が見える。大和朝廷から甲斐に移住してきた国守級在庁官人の出。長寛元年(1163)三枝守政の時代に朝廷側の熊野神社と藤原氏の対立にからむ長寛勘文事件に連座して以来衰退し、新しく国守になった甲斐源氏の属将となり、武田信虎の時代に断絶。信虎は三枝氏の旧族・石原丹波守守綱に三枝の名跡を継がせ、その子が土佐守虎吉を名乗り、更にその長男が三枝守友である。守友は元服後、使い番を経て奥近習六人衆仁名を連ね、西上野攻略・駿河侵攻などの歴戦に名を連ねる。特に駿河の花沢・深沢城攻めでは一番槍の巧妙をあげ、三方ヶ原での活躍振りに感銘した山県昌景は、名刀吉光の太刀を授けている。守友が山県の猶子になったのはこの後か。後に山県は守友を『若獅子のよう』と評している。1575年、武田軍は長篠城を包囲。守友は武田信実(信玄の異母弟)の副将として鳶ヶ巣山を守っていたが、5月21日未明、徳川の酒井忠次らの奇襲を受け、支塁の姥ヶ懐にて戦死。これが大敗を喫した設楽ヶ原の前哨戦となるのである。守友の父・虎吉は、駿河の田中城を守将として武田家滅亡まで守り切っている。穴山信君の説得で勝頼の死を知り開城、息子・昌吉を連れて徳川家康に拝謁。駿河・伊勢に身を隠した後、甲斐の旧領を安堵される。守友の遺児・守吉も父の旧領・同心56騎を受け継ぎ(幼少のため、昌吉が陣代を務める)三枝氏は徳川の旗本として命脈を保った。 |
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| 名前 | 初め宗四郎、元服(1552・15歳)して宗四郎昌貞。侍大将となり勘解由守友。その後左衛門尉を称して勘解由左衛門尉守友。一時期山県昌景の猶子となり、山県善右衛門を名乗ったと言うが、間もなく復姓している。 |
| 家紋 | 三階松(三枝松) |
| 初陣 | 弘治元年(1555)年木曽攻め(?)18歳。(これ以前の可能性も;) |
| 役職 | 奥近習六人衆(=土屋昌次・武藤喜兵衛・甘利昌忠・曽根昌世・三枝守友・長坂源五郎)の一人。使い番を経て弘治3年(1557)20歳で騎馬30・足軽70の足軽大将。永録7年(1564)27歳で56騎の大将に。 |
| 主な戦歴 | 木曽攻め・第3回川中島合戦・西上野攻略・第5回川中島合戦・倉賀野城攻め・箕輪城攻め・小田原攻め・三増峠の戦い・花沢城・深沢城・高天神城・足助城・野田城・吉田城攻略・三方ヶ原の合戦・長篠城攻め |
| 死因 | 戦死 |
| 命日 | 1575年5月21日・享年38歳 |
| 墓所 | 愛知県鳳来町。戦死した姥ヶ懐に、弟の守義と並んで名を刻んだ墓がある。 静岡県藤枝市。守国山慶全寺。守友の父・虎吉が息子の菩提を弔うために建てた。しかし現在墓はない。 |
| 戒名・法名 | 不明 |
| ※年齢は数え年で統一しています。 | |
| ■三枝守友の系譜 | |
| 石原丹波守守綱 (三枝) ┏━━━━━┛ ┣三枝土佐守虎吉━ ┃ ┣守竜 ┣守之 ┗守直 |
┓ ┣女 ┣三枝勘解由左衛門尉守友┓女(駿河浅間神社の神職・中村昌貞の妻) ┃(母・永井豊後守の娘) ┃ ┃ ┗守吉(母・向山三河守の娘) ━守恵 ┃ (武田家滅亡後・祖父虎吉に従い家康に ┣守義 拝謁。幼年ながら叔父・昌吉を陣代に、 ┃(守友と共に鳶ヶ巣 父・守友の旧領・及び同心56騎を賜る。 ┃ 戦死。享年36歳) ┣女 ┣昌吉━━━━━守昌━━━━━━守全 ┃(土佐守・ ┗守秋 ┣頼増(諏訪氏) ┃母・山県昌景の娘) ┗守輝 ┃ ┣吉親 ┗守光(鳶ヶ巣で戦死。(生存説アリ)享年16歳) |
| ■三枝氏のなりたち(寛永譜)■ 九州の筑紫に異国からの侵略が相次ぎ困窮していた仁明天皇の頃、勅使を派遣し八幡宮に参らせたところ、『丹波国大安寺の北東の隅にある、枯れた榎の三股に子供がいる。彼を大将軍にして討伐せしめよ』との神託を得る。果たしてそこに10歳くらいの子供がいたので連れ帰るが、何を訪ねても返答しない。やがて、その子が自らの指を噛み切りその血で『私は八幡大菩薩の命を持って異族を退治するために天から遣わされた』と書いて見せたという。 これを信じて大臣が育てたところ、身の丈2メートル余りもの異相の偉丈夫に成長。初めて三枝の氏を賜り、『守国』と名付けられる。これは、三股から生まれ、国を守るという意味から成るという。再び異国からの大軍が押し寄せて来た時、守国はそれを打ち破り、九州を鎮め、その功績で播磨の国に領地を得る。その後都にて禁裏に務めるが、故あって甲斐に配流させられる。これが甲斐の三枝氏の祖であるという。守国の屋号は『柏尾』と言い、甲斐に『柏尾寺』(現・柏尾山大善寺)を建立。守国は長徳4年9月19日、160歳(!)で死去。 +- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - + また、別説では三枝部連(さいぐさべのむらじ)は天津彦根命(あまつひこねのみこと)14世の孫、達己呂命(たころのみこと)の末裔であり、顕宗天皇の時、諸氏を集めて饗宴を開いた時、庭に三つ茎の草があり、これを献上したので三枝部連と呼ばれるようになったという。 |
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