![]() 真田安房守昌幸 さなだあわのかみまさゆき 1547〜1611。真田幸隆の3男。長兄信綱、次兄昌輝、弟に信尹がいる。まだ真田源五郎と名乗っていた7歳の時、上田の秋和郷の領地と引き換えに人質として甲府に送られる。(もっとも領地は戸石城攻略の恩賞で、人質と言うのも形ばかりのことだった)その頃から昌幸は奥近習として晴信の身近に仕え、後に『真田日本一の兵』と言われる戦略・戦術の基本を身につけて行くのである。初陣は永録4年の川中島。15歳の昌幸は武田・上杉の激戦の中、本陣を固める旗本隊として参戦、同じく初陣の土屋昌次と共に危機が迫ったときにも持ち場を離れなかったという。その激戦のさなか兄の身代わりとなって壮絶な戦死を遂げた信玄の弟・信繁に感銘を受けた昌幸は後に自分の息子に『信繁』と名付けている。これがいわゆる『真田幸村』である。信玄の命で、絶家となっていた甲斐の名門・武藤家の名跡を継ぎ、武藤喜兵衛となった昌幸は土屋昌次・甘利昌忠・曽根昌世・三枝守友・長坂源五郎等と共に『6人衆』として常に信玄の側にいて活躍。永録末年頃には家老衆に次ぐ旗本の地位にいたと思われる。しかし信玄没後、父・幸隆が後を追うように逝き、設楽ヶ原で兄二人が戦死した為旧姓の真田に復姓、真田昌幸と名乗りを変える。安房守を名乗るようになったのは天正8年頃の事だという。勝頼の時代には西上野を押さえ、沼田城を手に入れ、利根・吾妻ニ郡を武田の勢力圏とする。しかし、昌幸の躍進とは裏腹に主家の武田には衰退の翳りがみえはじめ、昌幸が普請した韮崎の新府城もわずか3ヶ月で捨てて逃げることになってしまうのである。勝頼の最後の選択は昌幸の岩櫃城に逃げるか、小山田信茂の岩殿城に逃げるかだった。結局小山田氏の岩殿を選んだ勝頼は土壇場で叛かれ、逃げる途中の天目山で自刃。武田は滅亡してしまうのである。主家を失った昌幸は織田・北条・上杉・徳川・豊臣と渡り歩き、関ケ原の戦いの際には西軍につき、家康の嫡男・秀忠の軍を上田に足止めしたのは有名な話である。しかし結局敗軍の将として高野山に配流され、生涯を閉じる。墓は九度山の真田庵にあり。 |
| 関連史跡 | 長野県 | ||||||||||||
真田町の長谷寺![]() ![]() 信綱寺 |
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| 群馬県 | |||||||||||||
![]() 岩櫃城跡 |
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| 和歌山県 | |||||||||||||
| 九度山…関ケ原の合戦の後、西軍についた真田昌幸・信繁親子が配流さ れた所。屋敷跡は『真田庵』(善名称院)となっていて境内にここ で生涯を閉じた昌幸の墓があります。 ![]() 真田庵 昌幸の墓 |
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