| ■勝頼の系譜 |
信玄
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諏訪
御料人
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おりゑの方
(信長養女)
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四郎勝頼┓
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武王信勝
女(林葉大姉)
女(新典厩室)
女(貞光大姉)
男(周哲大童子)
勝三
男(本光信継(桂)庵主)
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信勝以外の子供はあまり知られていないが勝頼には少なくとも3人の側室がいたと言われている。『新典厩室』というのが、武田信豊(武田信繁の子)の子・次郎の妻となった娘である。始め穴山信君の息子に嫁す予定だったのだが、勝頼は『仲のいい』信豊の子の方に嫁がせてしまう。これも後々の裏切りに繋がった要因かもしれない。 |
| ■理慶尼記 |
落ち延びる勝頼一行の様子を、大善寺の理慶尼が書き綴っている。粉飾の多い文章なので、史料としてはあまり評価されていないが、理慶尼が書いたものだと考えるなら内容に多少脚色を加えたとしても、実際目の当たりにした事に対する彼女の想いは真実であろう。その中にある辞世の句(本人が実際詠んだものではないだろうが…)
勝頼 『おぼろなる月もほのかに雲かすみ 晴れてゆくゑの西の山の端』
(土屋昌恒の返歌)『おもかけのみおしはなれぬ月なれば いづるも入るも同じ山の端』
信勝 『あたに見よたれも嵐の桜花 咲き散るほとは春の夜の夢』
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理慶尼…武田信虎の弟・勝沼信友の娘。信玄には従妹である。雨宮氏に嫁ぐが、
父が信玄に誅され、離縁されて出家した。 |
| ■勝頼の最期 |
| 甲陽軍鑑 |
『左に土屋殿弓を持って射給ふに、敵多勢故か無の矢一ツもなし。中に勝頼公白き御手のごひにて鉢巻をなされ、前後御太刀打也。土屋殿矢尽きて刀をぬかんとせらるる時、敵槍六本にてつきかくる。勝頼公土屋を不憫に思召候や、走寄給ひ左の御手にて槍をかなぐり六人ながら切り伏せ給ふ。勝頼公へ槍を三本つきかけ、しかも御のどへ一本、御脇の下へ二本つきこみ、押しふせまいらせて御頚を取候。』 |
| 武田三代軍記 |
『敵兵数十人同ニ進ミ、土屋惣蔵ニ槍付ル屋形土屋ヲ不憫ニ思召シ、真先ニ進ンダル敵ヲ六人切伏セラレケルニ、敵兵四方ヨリ進ミ重テ勝頼御父子ヲ槍付ル、此時又敵兵数ヲ盡シテ討タレ、味方モ悉ク討死シテ、御父子ノ御首ヲモタマハリケリ…』 |
| 甲乱記 |
『死出三途をば我手を取て引こし参らせんとて、北の方の御腹につき立玉フ、脇指の柄も身も朱に染りたるを、衣のはしにて押拭ヒ、白ク清げなる膚を押はだぬぎ、腹十文字にかき破り、腹(ハラワタ)ヲ抓んで四方へ投げ捨て、北の方と同ジ枕に伏し給フ。誠ニ不生不滅の心とは申シながら、又一念五百生、繋念無量劫の業なれば泥犁の底迄も、同ジ思の炎にや焦レ玉フらんと哀也。』 |
| 改正三河後風土記 |
『伊藤伊右衛門が咄とて津田幸庵が物語せしは、近年の物語を見るに、勝頼切腹と書きたるもあり、又事々しく戦て討死し給ふ様に書たるもあれども、我その頃は小平次といひ、滝川方に居て、伊右衛門と傍輩なれば、まのあたり見たるに左様にてはなし。勝頼は鎧の櫃に腰を掛け、太刀にて防戦し給ふといえども、飢疲れ給ひ何の働きもなく、伊右衛門討取りたりと、板倉周防守宅にて物語せしと見えたり。』 |
| 大方は『甲陽軍鑑』をもとに書かれたと思われるものが多い。ただ、異色なのは『三河後風土記』に、参考として引用されている伊藤伊右衛門の話である。(『〜風土記』も本編では軍鑑の記事を採用している)疲れ果て、抵抗する力も無く討取られた勝頼の姿は、あまりにも悲しいが一番リアルに思い浮かぶ。実際の戦いの末路とはこういうものかもしれない。 |
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| ■土屋惣蔵昌恒(1556〜1582) ※写真の看板をクリック! 更に詳しく▼ |
『土屋惣蔵二十歳是ハ金丸筑前守ガ五男ニテ土屋右衛門尉ガ弟ナリ。容顔美好ニシテ心剛ナリケレバ勝頼ノ御寵愛並ビ無シ』…本姓・金丸惣蔵。金丸虎義の五男。土屋昌次の実弟である。幼少から勝頼に近侍していたというが詳しい事は分からない。永録11年12月12日昌恒13歳、今川攻めの際兄・土屋昌次隊に加わり初陣、今川の勇将・岡部忠兵衛の士卒を討ち取り軍功を挙げる(宇津房の合戦)。この岡部忠兵衛は後に武田に降り、土屋豊前(備前)守直規(貞綱)と名乗り昌恒を婿として迎える事になる。その後昌恒は勝頼の命により清水の城を預かる。義父・土屋豊前が海賊衆だったため、昌恒も海上生活をしたのだろうか。若年ながら上州攻め・相州・長篠と勝頼の先手として活躍、最期の天目山では、片手は蔓に捕まりもう片方の手で寄せ来る敵を斬っては崖下に蹴落としたと言う『片手千人斬り』(写真はその史跡)の伝説を残した。享年27歳。墓は金丸氏の居館跡・長盛院にあり。(個人的にちょっと贔屓…) |