音学歴  最終更新2006.6.26

 
サイト管理人の勤務する会社が2000年と2005年のショパンコンクールのオフィシャルスポンサーになりました。


 小2〜
  「あんなものは女のするもの」と思っていたカワイのオルガン教室だったが同級生の影響で通い始める。
  オルガンの教本は初心者用しか無く、ピアノか電子オルガンへ進むか、止めるかの選択で、最も一般的なピアノを選択。ピアノ教室として開放している親戚の影響もあった。そのうち恥ずかしさから習っていることをだんだんと隠すようになる。発表会出演拒否の経験もあり。
 小5
  町の小中学校音楽会の合唱のピアノ伴奏人選で、つい習っていることを洩らしてしまう。ピアノを習っていた人はごく僅かな上に低レベル。自分が難しい方の曲の伴奏担当となる。結局、持ち回り制の県音楽会まで出ることになり、県文化センターの大舞台での伴奏も経験した。
 小6
  既に従姉妹が私の家の部屋を利用してピアノ教室を開いていた。通うことを止めて従姉妹につくが、細かい所に厳しく、進みが悪くなり嫌になる。
 中1
  運動部所属を理由にレッスン停止。このときソナチネの上巻。
  学年が進むに従い徐々に音楽教師との関係が悪化。音楽の授業のときだけクラス1の問題児となる。
 高1
  選択授業で音楽でなく苦手な美術を選択。音楽とは無縁となる。
 高3
  旺文社のラジオ講座に出ていた作曲コンクールに真剣に取り組み、作曲に関心を持つ。
 大1
  実家を離れ、ピアノは不可。授業中に作曲をする癖がつく。
 大2〜
  弟の影響もありピアノよりキーボードに興味を持ち、サンプリングキーボードを購入。NHKFMローカルの「宛先ソング募集」で、自分以外誰も応募せず、自分の歌がラジオで流れた経歴あり。
 社会人〜
  いつからか弾き語り譜を探すようになり、時折りピアノに向く程度だったが、KANのコンサートの「永遠」という曲の弾き語りを聴き、ピアノ離れに歯止めがかかる。しかし相変わらず、初見で全く弾けない曲、♯4つ以上や♭3つ以上の曲には手を出さない。
 1994年
  「元気が出るテレビ」の「バレンタインラブソング」のオーディション通過。「ヤラセ」の撮影もしたが放送はされず。
 1998年
  4月、ニフティの掲示板でピアノサークル新規設立の掲示を発見。ここでやっとリチャード・クレイダーマンを知り、はまる。更にサークルメンバーの影響で和泉宏隆、西村由紀江、久石譲に興味を持つ。ニューエイジ一色の中、クラシックではショパンが好きになる。Chopinの綴りが読めるようになったのは98年7月頃(^^ゞ。その頃まだ即興曲をそっこうきょくと読んでいた(げんそうそっこうきょく)(^^;;;
  10月には練習環境を求め林の中へ引越し、(近所はあまり問題でなく、練習中の同居人のヤジに耐えられなかった為)11月にピアノを移設。
 1999年
  アマチュアのピアノ弾きの演奏会でアンドレ・ギャニオンを知り、さらにニューエイジ系の幅が広がる。
 2000年
  クラシックではショパンに続きシュトラウスに興味を持つ。まともな練習環境で1年7ヶ月過ごし、ピアノ関連の知人もたくさんできていたが、転勤の為この地を離れる。
  ショパンを知ってから初めてのショパンコンクールで出向元の会社がなんとスポンサーとなる。また、居住の中国から1位が出る。ピアノとの縁を感じるが、相変わらず練習環境には恵まれない。
 2001年
  自分の為の時間の少なさ(なんでだろ?)から、無錫での電子ピアノ購入を断念。

 2002年
  無錫でピアノのある日本人向けの店はカラオケの店なので、ピアノを弾くことが歓迎されない。完全なピアノ離れ状態。

  しかし7月、ホテル暮らしを止め、ついにピアノ付きでアパートを借りる。
 2003年
  6月、無錫日本人日本人ピアノサークルを立ち上げるも7月に帰任通告を受ける。