一応、なんにも知らないひとのために書きます。これは、ずっと前、私がある冊子に書いたものです。
1928年 フランス映画『アンダルシアの犬』
監督はルイス・ブニュエル。脚本は彼とサルバドール・ダリです。この映画はいわゆる「シュルレアリスム映画」ですが、この「シュルレアリスム」という言葉、やたら氾濫しているとは思いませんか。なんか安っぽくシュール、シュールって言われていますが、「シュール」なんて言っているのはどうやら日本だけのようです(たぶん)。辞書にもこう載っているからすっかり日本語になっちゃったようですが、これって「シュール」と「レアリスム」に分けて、言ってるんですよねえ。でも厳密に言うのなら、そうやって分けちゃいけないようですよ。「シュル(超)」「レアリスム(現実)」だと、それは、現実でない、現実を超えちゃったもの、非現実なものを意味してしまいます。でもシュルレアリスムっていうのは、現実離れなんかじゃなくむしろ現実の延長線上にあるもの、現実以上の現実なんです。チョー現実、すっごく現実なんです。普段見てたものが、なんか今日は違って見える、とか。日常と断絶してるんではなくて、日常の連続にあるものを言うそうなんです。だから分けるとしたら「シュルレエル(超現実)」「イスム」なんです。だから、この世のものではないもの、と感じて「シュール」だなんて言ってるひとは二重の間違いを冒してるわけです。シュルレアリスムってむしろ写実的で、主観的じゃなく客観的なものなんです。
アンドレ・ブルトンの起草した「シュルレアリスム宣言」(’24年)によって、ギョーム・アポリネールが考えたこの造語surrealismeは定着し、20世紀最大?の芸術運動の名称となります。
「それによってひとびとが思考の現実の働きを表現しようとする純粋の心的自動現象、美的または倫理的な一切の配慮の外部で、理性による一切の管理なしになされる思考の書き取り」
シュルレアリスムの造語に「エクリチュール・オートマティック(自動記述)」っていうのがあって、あらかじめ書く内容を用意しないでただ筆のすべるにまかせて速く書いていく、というものです。精神医学の治療に使われることもあるそうですが、この書くスピードをどんどんアップしていくと、狂気に近いところに行ってしまうそうです。ブルトンは自動記述をやりすぎて、あるとき窓を開けてみたら突然飛び下りたくなってしまったという、しまいに危険になってきた為にこの実験をやめることになったそうです。
『アンダルシアの犬』ではデペイズマン(本来あるべき場所にないものを出会わせて異和を生じさせる)などがなされています。
「ミシンと雨傘の手術台上での偶然の出会いのように美しい」 ロートレアモン
他にも物語りの非連続とか不在とか、時空の混乱とか、いろいろ、実験。アヴァンギャルド!見てないひとは衝撃をうけよう
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追記 アンドレ・ブルトンとフロイトとの間には幾度かのやりとりがあったようですが、ブルトンはフロイトに対してもっとラディカルな姿勢をとるよう要求し、フロイトの慎重さに失望したようです。いろいろ、意見が食い違ったようです。
精神分析の中には、患者への同一化をもって治療の目標とする考え方があります。治療者の健康な自我への同一化が、患者のアイデンティティを安定させ、良き社会生活を送るように導くのです。シュルレアリスムがやりたいのは、反対かも。知的反抗?無意識の存在を十分に自覚する前に飛び込んでいっちゃった感じも。
でも後のラカンという精神分析家は、それとも違う次元の存在のありかたを見い出そうとしていきました。ラカンのほうはサルバドール・ダリに学んだこともあったようですが、『アンダルシアの犬』に続く『黄金時代』以降のブニュエルとダリは仲が悪いです。
さてシュルレアリスムはその後共産党に接近、そして軋轢をきたし、内部分裂へと向かいます。
『演劇と形而上学』のアントナン・アルトーなんかは、はじめシュルレアリストたちのグループに属していましたが、シュルレアリストのマルクス主義は「精神的な革命を裏切り、政治の手に引き渡すもの」と捉え、批判しました。もちろんグループ脱退です。アルトーからすれば、えせインテリの集まりみたいに見えたのでしょう。アルトーはもっと真剣で、自分にも厳しくて、エロティシズムにもうるさくて、「シュルレアリストたちはどうやら人生を愛しているらしい」と彼らを蔑みます。