他者とは 

アイデンティティ論・ラカンの鏡像段階理論・アフォーダンス理論・相互作用・モノの消費・ポストモダニズム・コミュニケーション論


私はひとりの他者である  ランボー
他者は地獄である サルトル

あるものと他者との関係についてはプラトンの頃からすでに論じられていて、 ヘーゲルは「あるものは他のものとの連関のうちにのみ存在し、また他のものへの転化を内に孕む」という法則を確立していました。 それはたぶん神とか世界とか大きいレヴェルの他者のことを言っていると思うので ここではもっと日常的なところで話を進めていきます。

ゆるぎない自我ってあるんでしょうか。私はなにかの授業で、他人あってこその自分、という話を聞いて、かなりのショックを受けて、 それ以来「他者」というものに関心を持っていました。 ハイデガーサルトルは、「人間は根源的に他人との共同存在であり、孤立的な我から出発して他我 を見つけるのではない」と主張しました。 自我というのは、たくさんの他人とか環境によって形成されるものらしいです。

そこで、他者の介入について考えたひとはいっぱいいるのですが、 ここではジャック・ラカンを挙げたいと思います。

新宮一成氏の『ラカンも精神分析』によると、まさに、自分というのはカラッポである、というようなことが書いてあって、なんと 自分の行動というのは他者の欲望のあらわれなんだそうです。 それで、「対象a」という言葉が出てくるのですが、 それはなにかというと、「他人の中に埋め込まれ、私のとって非人間的で疎遠で、鏡に映りそうで 映らず、それでいて確実に私に一部で、私が私を人間だと規定するに際して、私が根拠としてそこに しがみついているようなもの」と書いてあります。そしてその「対象a」と呼ばれるものの代表格は、乳房、糞便、声、まなざしだそうです。 うーん。まあわかりやすく言い換えるなら、おそらく、「私」ではなくて「私が見い出すあなたの中の私」という感じなのではないでしょうか。そして、これはラカンによると黄金数というもので表すことができます。 ここでは記述しませんが、数字が出てきて、計算をして、ルートで表されるような、割り切れない数字が算出されます。その計算で導き出されることは、「私が他者をどう見ているかということ」が「私が全体の中でなんであるかということ」に等しくなるとき、その他者は私にとって黄金数になるということだそうです。そのとき、はじめて私は自己同一性を支えることができます。これは、自分の真の姿というのは、「私」を含めた普遍的な視点から明らかにされるべき、ということを示唆しています。このようにして、 私たちは他人の中に、知らず知らずのうちに自分に他ならない対象a、黄金数を見い出そうとしているのです。要するに自己同一性を確立したいという欲望です。このようにして、認められたい、とか有名になりたいとか、愛されたいとかいうことが、いかに他者に依存しているかということもわかってきます。

鏡像段階理論

6ヶ月から18ヶ月の幼児期に、鏡を見て身体の機能的統一性の獲得を先取りする段階

ここでは鏡も他者として考えます。鏡に映る自己身体の統一像は、社会関係における他者の知覚像と重なります。 他者が鏡の役割を果たすようになり、鏡像自己は他者によって担われます。これを鏡像的な「私」 から社会的な向け換え、と言うそうです。鏡像段階理論は、主体が鏡像というものの中に、はじめて自己を見い出すのみならず、自己の 認知を当然のこととして社会にも要求するになるプロセスを描き出したもの、らしいです。鏡を見て幼児は笑います。これは自分ではなく他人を笑っているのではないかという指摘もあります。おそらくそのとき両親も鏡に映っていて、幼児は彼らに対して微笑みかけているのです。しかし彼らは「これはおまえだよ〜」ということを何回もやって、幼児に鏡像を認知させます。そういうわけで、映っている「自分の顔」というのは、 教え込まされた、押し付けられた顔、なんだそうです。鏡というのはそのように考えれば、「自己の統一性を不当に奪って所有している他者」であり、同一化の中には 多量の攻撃的成分が含まれている、と言うことができます。

こうして、鏡の存在を考えても、自己同一化というのはこんなにも幼い頃から 他者が介入しており、逆に言うなれば介入しなければ同一化できないものなのです。そして鏡像とは、結局は「他者の言語」であり、他者の言語の世界に囚われているということは、人間存在の必然的なありかたなのです。 これをラカンは他者性の囚人と呼んでいます。

鏡像段階理論と不可分なのがアフォーダンス理論です。これは、「モノのほうに眼がある、モノが私達に影響を与えている、モノが人間に語りかける」といった理論で、建築批評などにも応用できます。ミシェル・セールは「哲学の対象は神から人間へ、人間から物へと移行するべきだ」と言っています。加えてサールズも「環境がひとを支配する」と言っています。そういうわけで、「モノという他者」と私の関係について考えていきます。

ハイデガーは、モノを存在者、とします。モノ、すなわち存在者それ自身が告知する行為誘導的な性質を「アフォーダンス」と呼んでいます。 それで、私たち人間としては、モノすなわち存在者の用途を発見するためにも、「(モノに)誘導される態勢」を つくっておかねばなりません。 これは人間が成長の過程で、おのずから学習し身につけていく能力だそうです。 これは、上述したような、鏡を教えこまされるということにも通じているのではないかと思います。

世界に存在するあらゆるものが相互に作用している(相互作用)、と考えたのはグレゴリー・ベイトソンです。 これは精神と自然の統一を求めるエコロジー的思想なんですが、彼をひきあいにして モリス・バーマンというひとがデカルトを批判しています。 精神と肉体を切り離したデカルトの心身二元論は、人間と人間の関係をも分割してしまったと言います。 そんなデカルトはといえば、フランシーヌという少女人形を鞄に入れて持ち歩いてたらしいですヨ。

モノの消費

ブランド品などの、「見せびらかすための所有」というのはまさに他人を意識した消費です。 だから他者に対して無関心であれば物に対しても関心を持たないという考えがあります。 しかし人目につきにくいコンパクトなものなんかが売れる現代はこの理論では割り切れないことも出てきます。

ジャン・ボードリヤールのいう機能性と記号性という次元ではカバーできない「モノの消費」
機能性  必要  社会的なもの
記号性  欲望  ↓↑
誘惑性  感性  私的なもの    →装飾的なものを付加したキッチュ化、ポストモダニズム
アブラム・モール 「キッチュが頂点に達する時代は、ブルジョワジー勝利の時代、そして豊かな時代である」
ヘルマン・ブロッホ「さまざまな価値の下落の時代は、すべてキッチュである」
ポストモダニズムの美学  折衷主義、バッドテイスト、装飾、復合性、あいまいさ

アイマックの消費も、カラーだけど個人の部屋で楽しむものだし、 多少は見せびらかしもあるかもしれないけど、ほぼ個人で楽しんでるものだと思います。色がついたおかげで機械との距離が縮まり、さらに親しみやすくなりました。けれどもそれはそれでちょっと疑問です。 人間とのコミュニケーションよりモノとのコミュニケーションが活発になっているような気がするからです。 ちょっと前の、犬のロボットみたいなのが、高いのに即完売だったそうですし、本物の植物より、なんか光ったり 音楽が鳴ったりするニセに植物が売れたりしていて機械との相互浸透はますます活発になっているようですネ

でもホームペ−ジのおかげで友達増えました。すでにパソコンは私の友達です。こういうの批判するひといますけど

このページの内容はほとんど↓の本に手引きされています

現代のわれわれは「メディアカルチャー」という「他者性」の囚人である

『欲望するオブジュ』『デザインのエートス <人>と<物>のアイデンティティをめぐって』

私のゼミの先生→ 宇波彰 著

大村書店 2300円



本ページのトップに戻る