内容は、社会学者ジャン・ボードリヤールが唱えたシミュラークル(贋造される現実=ヴァーチャル・
リアリティ)理論に通じるような感じです。わりとムリヤリ映画と戦争を結び付けている印象を受けますが、 端的に言うと、戦争はスペクタクル映画だ、と言っています。 映像技術が発達したのは戦争の際の偵察写真(前線の状況を知るための)の必要性からくる、という話から始まっています。
ヴィリリオは光のことをとても重要視していて、投光器の使用によって、夜の戦場を照らし出すことが可能になったこと、つまり1日中戦争体制になり、常に監視される身になってしまったことなどを言っています。
フィルムは光がないと現像されないわけですが、それを戦争と結び付けて、原爆のことも言っていて、
「日も眩むばかりの激しい光によって人や事物の射影を 写真そのままに残存させたあの広島の閃光」
と言っています。
どういうことかというと、原爆で、影だけ残った、とかいう話は知っていると思うのですが、 光が事物をフィルムに焼きつけるように、原子爆弾の閃光が、まさに地面に事物を焼きつけた、ということです。
一瞬のうちに、あらゆる表面空間を記録表面、つまり 戦争フィルム=映画に変えたと言っています。
恐いこと考え付くと思いませんか?
しかも、夜の空襲自体が、それだけで音と光のスペクタクルであり、夜空をパン・シネマのスクリーンに変えた、と言っています。
巨大映画館が第1、2次大戦のときに存在していたらしく、それは神殿のような大建築物だったそうです。 この、神殿というものも、もともとステンドグラスなどで光をとりいれているわけで、聖堂そのものが太陽に光の照射される映写室であるという意味で、 巨大映画館と大聖堂の建築が比較されるのも当然のこととしています。 もちろんそこで上映されるのはプロパガンダ(主義、思想などの宣伝、煽動)映画であったりします。 あるいは恐怖映画なんかをかけて、戦中の恐怖に備えて免疫を持たせるようにもしていたようです。
戦争は、敵軍との隠れんぼゲームです。、見られたらおしまいです。
隠蔽することに全力が傾注され、戦力は集中ではなく、分散が求められます。 そうして、自分もスクリーンに捉(捕)えられているのではないか、という不安、風景を覆う絶対的な透明感に襲われるそうです。
「網膜残像が生むあの光学現像にも似たシークェンス知覚の時空間」
各部隊は自分たちの視野の外から来る命令に従い、そこではメッセージ全体の三次元的再構成がなされます。
そこでヴィリリオは、多量な情報を同時的に管理することの困難、知覚の壊乱を指摘し、視点の調整が必要だと言っています。
加えて、ヴィリリオは速さにも注目しています。それはイタリア未来派(*)と通じる話なのですが、こないだのスタジオボイスが「SPEED KING」という特集をしていて、それは車のデザインとかばっかりなんですが、
ゲームのことを言っていて、「現実を意識させずとも、スピードに質感が与えられるのであれば、プレイヤーを納得させることができる」
と指摘しており、それをヴィリリオと結び付けるなら、彼は 「速度が映像の最初の大きさとして現れ、奥行きの起源となる」と言っています。
写真銃を発明したエチエンヌ・ジュール・マレーというひとがいますが、ヴィリリオは彼によって撮影機器には動きが与えられた、と指摘しています。
映画における虚偽とは加速化されたパーウペクティヴの効果ではなく、画面の奥行そのもの、投影された空間の時間的隔たりがうみだしたものなのです。
ヴィリリオに言わせると、戦争は破壊よりも距離をつくりだしました。そして、戦争によって、兵器の機能は眼の機能に変わっていったのです。
* イタリア未来派
1909年 フィリポ・マリネッティの未来派宣言
「ある新しい美、、それは速度の美である」 速さの美学、機械の美学
流線型のデザインから、ノイズ・ミュージックに至るまでの幅広い運動。
しかもファシズム政治と直結した芸術運動でした。
「今の戦争は、これまで発表されたもののなかで最も美しい未来派の詩であり、未来派は芸術のなかに戦争が出現したことを確認する」
マリネッティも、ヒトラーも、新しい文化はテクノロジー的な性質をもたなくてはならないことを理解していました。
レニ・リーフェンシュタールの映画がファシズムに貢献したかどうかは今だに論議される問題です。
→『レニ・リーフェンシュタール 20世紀映像理論のために』 平井正
ジークフリート・クラカウアー「ナチスは『意志の勝利』を作るために党大会を上演した」
追記 ヴァルター・ベンヤミン ファシズム→政治の美学化 共産主義→美学の政治化
ベトナム戦争における、見えない戦争、見えない恐怖と言われたものの問題
