Yet Another Mongolia  (c)ASIMURA Takasi

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内モンゴル留学記

内モンゴルへ留学した時のことを,雑誌に書いたものです。

オリジナルは,大修館書店の『月刊言語』(8月号)の,リレー連載「ことばというパスポート(内モンゴル編)」です。元記事には,簡単なモンゴル語入門も載っていましたが,ここでは,割愛しました。


 私が,モンゴル語の勉強をしていることがわかると,たいてい,こうたずねられる。「それなら,モンゴルに行ったこともあるんですか」

 私の答えは,いつも,こうだ。「実は,まだ,モンゴル国には行ったことがないんです。中国の内モンゴルには,留学したことがありますけどね。」

 相手は,すこしとまどう。「へえ,中国にもモンゴル人がいるんですか…」

 モンゴルと聞いて,私たち日本人が,普通に思いうかべるのは,独立国の「モンゴル国」であろう。ほかの国にもモンゴル人がいるなどとは,まず,思いもよらない。だが,今のモンゴル国が独立した時,周辺に暮らしていたかなりの数のモンゴル人たちは,中国やソビエトに取り残されてしまったのだ。実は, このようなモンゴル族は,モンゴル国の人口よりも多い。

 その内モンゴルに,私は,1994年から2年4ヶ月,留学していた。東京外大の修士課程でモンゴル語を勉強していた時のことだ。

 実をいうと,内モンゴルへいったのは,モンゴル語のためではなかった。本当は,中国で話されている「孤立系モンゴル諸語」を勉強するつもりだったのだ。

 この「孤立系モンゴル諸語」というのは,かつてのモンゴル帝国の言葉がのこったもので,中国の甘粛省,青海省の保安族,土族,東郷族,裕固族(東部)の話す言葉が,それである。例えるならば,ローマ帝国のラテン語が,フランス語やイタリア語やスペイン語などになって,のこっているようなものだ。

 ちょうど,東京外大には,内モンゴルからの留学生が,たくさんいたので,そのつてで,甘粛省に留学する手続きをしていた。ところが,研究計画に問題ありとされ,許可がおりなかったため,まず,内モンゴルの大学に入り,それから,様子を見て,甘粛省の学校にうつることにしたのだった。

 旅立った日のことは,今でも忘れられない。飛行機は無事北京に到着,両替もすませ,白タクの呼び込みもすりぬけて,国内線ロビーへ。あとは,内モンゴル自治区の区都フフホト行きの飛行機を待つだけだ。

 ところが,飛行機が遅れるという掲示。つたない漢語で,受付に聞いても,なにかをどなって首を振るばかり。「まだまだ」ということか,「わからない」ということか。もっとちゃんと漢語を勉強しておくべきだったと,悔やみつつ待つこと4時間。突然アナウンスがあり,皆が駆けだす。アナウンスで繰り返している番号は,どうやら,私の乗る飛行機のようだ。30分ほど飛んで,フフホトについたのは,深夜の1時近くであった。

 空港には,お世話になる先生方が,むかえに来てくださっていた。ここからは,モンゴル語が通じる!耳が慣れなくて聞き返すことばかりだが,東京で習っていたのと,同じだ。

 おなかがすいただろうということで,外へ出るが,こんな時間にやっている店などない。外の屋台でうどんを食べる。腐ったような味のものが入っているが,暗くてわからない。飲み込むようにして食べたが,あとで,香菜(シャンツァイ)だとわかった。

 私が勉強することになったのは,内モンゴル師範大学のモンゴル言語文化研究所。この師範大学は,学生の半数はモンゴル族で,あらゆる授業がモンゴル語,漢語で用意されている。

 先生方は,ちゃんとカリキュラムを考えてくださっていた。指導教官は,モンゴル語学のナランバト先生。モンゴル語,方言,モンゴル語史,孤立的諸語など,色々な授業が用意された。生徒は私一人。非常に充実していた。漢語の授業がなかったのが,不思議といえば不思議だが,暮らしている内に,どうにかなるだろうと思っていた。

 だが,結局,漢語が上達することはなかった。モンゴル族は,漢族に比べ圧倒的に少数だが,大学のまわりには,モンゴル人の学生,先生がたくさん住んでいる。交友関係も,モンゴル人だけで形成されてくる。モンゴル人相手の店なども数多くあり,大学のまわりは,一種のモンゴル人コミュニティであった。空港で悔やんだことなど,次第に,忘れていってしまった。

 生活に慣れるにつれ,内モンゴルのモンゴル語と,モンゴル国のモンゴル語の違いにも,気付くようになったが,それは,東京で習った知識と,大きく違うものではなかった。それよりも,聞いたこともない方言がたくさんあることの方が,驚きだった。

 特に興味をひかれたのは,尻上がりのイントネーションで,漢語まじりの方言だ。この方言は,本当にあちこちで聞く。いろいろと調べてみると,この方言は内モンゴル東部の方言で,内モンゴルの中では,一番の大勢力なのだそうだ。しかも,彼らのほとんどは,牧民ではなく農民であるという。モンゴル人なのに農民!これには,「孤立的モンゴル諸語」もかすんでしまい,最後まで内モンゴルで勉強することにしたのだ。

 モンゴル語の研究は,どうしてもモンゴル国が中心になりがちで,内モンゴルの方言となると,人手がまわらないのが現状だ。かといって,放っておくわけにはいかない。

 実は,「モンゴル=モンゴル国」というおもいこみは日本だけのものではない。内モンゴルが忘れ去られようとしているという危機感は,内モンゴルにすむモンゴル人たちは,特に感じている。しかし,これは,内モンゴルの人たちで,どうにかできる問題ではないのも事実だ。

 おもえば,服部四郎,今西錦司,磯野富士子,梅棹忠夫などの諸先生が,若かりしころ,精力的に調査を行ったのも,内モンゴルであった。そして,それが可能だったのは,内モンゴル東部が,かつての満州国の領土だったこともある。実は,内モンゴルは,日本人にとって,非常にゆかりの深い土地なのである。

 同じ様に,戦前,日本に留学していたという人たちも,内モンゴルには,多くいる。その人たちの日本語は,非常に歯切れがよく,耳に心地よい。戦前の若者は,このように話していたのだろうか。こちらが恥ずかしくなるほど美しい日本語だ。

 もちろん,内モンゴルは,私たちがモンゴルに対して持つイメージを,簡単にぶち壊してくれる。遊牧を行わず,定住している牧民もいれば,土壁の家に住む農民もいる。だが,みんな,モンゴル語を話し,チンギスハーンを誇りとするモンゴル人であることに,かわりはないのである。


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