§ asagi box §

ああ、ああ、なんということだ。あんなに恐ろしいものとは思わなかった。

ストーカーである。ストリーカーではない。ましてや配偶者の人の実家の近所にあるスーパーの利用客でもない。おっと、これはローカルすぎてついてこれぬか。ええい、私のうしろに忍びよるキサマは何者だ。なんだ、須藤か。やかましい。だれかこいつをつまみ出せ。

須藤はともかく。

ストーカーというだけあって、忍びよるのである。振り返るとうしろにいるのだ。ごくあたりまえのような顔をして、やつはいけしゃあしゃあとそこにいる。どうしてくれようか。いや、どうもできやしない。というか、正直いって積極的に関わりたくない。つぎの瞬間、そこにいないことを祈るだけだ。ああそれなのに、やつは厳然としてそこにいるのだ。

私をつけ狙うストーカーは、やつ、などとはいったものの、一見すると還暦を迎えて久しかろう上品なご婦人であった。ファーストコンタクトは出勤途中。仙台市営地下鉄南北線広瀬通駅をでてすぐのところで、老婦人は不意にうしろから話しかけてきた。

「こちらへはご出張ですか?」
「はぇ? あ、いいえ」

はてだれだったか。

私はひとの顔と名前を覚えないことでは定評がある。したがって、覚えのない顔だからといって赤の他人と切り捨てることができない。むこうはこちらを知っているかもしれないからだ。もし仕事関係者だったら恥をかくだけではすまないやもしれぬ。ずいぶんとなれなれしい様子ではあるし、なんとか話をテキトウに合わせつつ、私は記憶の糸を必死にたぐった。

「お住まいはこちらですか?」
「あら、じゃあ大学もこっちで?」
「お仕事はどちら?」
「それじゃあ……」

ええ、とか、まあ、とかあいまいに返事をかえしつつもやはりその顔に見覚えはなく、質問もなんとも要領を得ない。会社もいいかげんもうすぐのところまできていたので、覚悟を決めてこちらからひとつ聞いてみることにした。

「……あのさ、アンタだれ?」

敬老精神ゆたかな私らしからぬ、おもいきり不機嫌かつ不信感まるだしの口調となってしまったが、このとき私はすでに恐怖していた。このババア、いったいどこまでついてくる気だ。たのむから勘弁してくれ。そこのかどで「じゃ、私はこっちですから」と曲がっていってくれ。そして私の前に二度と姿をあらわさないでくれ。とにかく私はあなたを知らないんだ。あんただって私のことをしらなそうじゃないか。なにが目的なんだ。金か。それとも身体か。いやん。

しかし老婦人は、イエイエイエ、などと顔をそむけて手をパタパタするだけで名乗ろうとはしない。いってみれば明確にこちらがむこうを知らないと宣言したのだから、もしむこうの人違いであれば一言わびて立ち去るだろうと思い(わびなどいらんからさっさとどっかいって欲しかったが)、私は歩調を速めてうしろを振り返ることなく会社へと急いだ。

ビルについたときは、追っ手を振り切り、安全地帯に逃げ込んだ逃亡者のこころもちであった。まさかこんなところまではついてくるまいと胸をなでおろしつつエレベータにむかうと、たまたま上司がエレベータを待っていた。ほどよいタイミングでエレベータがつく。

乗り込みながら、さっきこんなことがあったんですよ、となぞの老婦人の話をしようと口を開きかけた途端、私の目の端にその姿が映った。まさにいまこの瞬間、話題にしようとのどまで出かけた当の主人公であった。おいおい、入ってきやがったよホントに。これは、怖い。へたなホラー映画などくらべものにならないほど怖い。ほんとうに、冗談抜きで、二五歳にもなってちびるかと思ったほどだ。

老婦人はきょろきょろとあたりを見まわしながら、落ちつかない足取りで、しかし確実にこのエレベータにむかってくる。じょ、上司、可及的速やかに、迅速に、要するにはやくその「閉」ボタンを押してください。さもないとやつの侵入を許すことになる。ええい、はやくしろと思っているのが聞こえんのかッ!

しかし、上司はごくふつうにいいひとだった。

私の願いもむなしく、老婦人のご到着までご親切なことに「開」のボタンを押して待っていたのだ。挙動不審なままに老婦人はエレベータに乗り込むも、上司の「何階ですか?」との質問に、あら、ええ、まあ、などとまともに答えない。なんだよ見るなよ私がしるわけないだろう。

自然、われわれのむかう七階のランプのみを点灯させたままエレベータは上昇した。さすがに上司も老婦人の不自然さに気づいたのではないかと思う。なにしろ七階はわれわれが勤務する会社がワンフロア占めているのだから。しかし私にできることは、そっぽをむいてしらをきりとおすことだけだった。上司、私はこんなひと知りませんからねっ。

当然というか、七階についても老婦人はエレベータを降りようとしない。エレベータ内の配置は、最後に乗り込んだ老婦人がいちばん扉に近い。マナーからいえば、老婦人が降りるのを待たねばわれわれも降りられないのだ。ああもう、いったい私が何をしたというのだ。

老婦人は困惑の表情を浮かべるのみでいっこうに動こうとしない。ああ、だから私の顔を見ないでくれ。訴えかけるようなまなざしをむけられても私は無関係だ。私はマナーもへったくれもなく、その場からはなれたい一心で強引に老婦人を押しのける形でエレベータを降り、尋常ならざる早足でオフィスへと飛び込んだ。ちらりと振り返ると、ようやくエレベータから降り、不安気にまわりを見まわす老婦人の姿が目に入った。タノム。頼むからオフィスにまでは入ってこないでくれ。ここは私の会社ではなく常駐先なのだ。お客さんなのだ。しかもお得意さんだ。間違っても面倒を起こさないでくれぇ。

席についてしばらくのあいだ私は動けなかった。いつもなら朝のコーヒーをいれに給湯室へむかうところだが、しかし給湯室はエレベータのすぐそばだった。いまいけば間違いなく老婦人がいる。その顔を見ることすらごめんだ。ましてや話しかけられでもしたらどうすればよいのだ。そのうえその様子をだれかに見られたら。あああ、違うんです、違うんです、私とこのひとはなんの関係もないんです赤の他人なんです許してくださいぃ。

上司がやや遅れてオフィスに入ってきた。そのうしろに老婦人の姿はない。どうやら入り口のところをうろうろしているようで、中にまで入ってくるつもりはなさそうだ。これにはすこしほっとしたものの、結局、その日はついにコーヒーを飲めなかった。

それでも、仕事が忙しかったこともあって、夕方頃には私もこの奇妙な老婦人のことを忘れていた。

少々残業してオフィスを出たのは二十時半をすこし過ぎてからであった。出勤が八時半だから、この間十二時間ほど。朝の恐怖はどこへやら、私が老婦人のことをすっかり失念していたとてだれが責められよう。なにしろ十二時間である。だが。しかし。ところがどっこい、信じられるであろうか。ビルの前に老婦人はいたのである。こちらの姿をみとめ、ふらふらと近寄ってくる。

「……みぎょ!」

意味をなさないことばが口から飛びだす。なすすべなく固まる私。得体のしれない笑みを浮かべ、一歩一歩こちらへとにじり寄る老婦人。まさかずっと待ってたのか? ここで? だれを? 私を? なんのために? そもそもアンタいったいだれ? 私になんの恨みがあるってんだコンチクショー!

私は逃げた。走った。いつもの地下鉄は使わず、タクシーを拾った。月の小遣いが諸経費込みで二万円の私がわざわざタクシーを拾った。それほどまでに怖かったのだ。恥も外聞もなかった。半べそをかきながら「とにかくはやくだしてっ」などと叫ぶ私を運転手はどう思っただろうか。私自身は「あ、テレビみたい」などと思ったのだが。なんだ、けっこう余裕あるじゃねえか。

その後三日ほど、出勤時と退勤時に老婦人は私の周辺をうろつき、私がそれを必死で振り切る日々が続いた。出勤時に降りる駅をひとつ先にしてみたりもしたが、老婦人は会社の前で張っていたのだから意味がなかった。さいわい、ビルの警備員さんも不審に思ったらしく、建物への侵入を防いでくれたおかげでオフィスは安全だった。やがてぱったりと老婦人は姿を見せなくなって今日にいたり、かくして老婦人の目的は永遠のなぞとなったのである。いや、おねがいだから永遠てことにしてくれ。

いまではだいぶ恐怖も薄れたが、つぎにもし出会うことがあれば私は卒倒してしまうかもしれない。なんの危害を加えられたわけでもないのに、多少なりとも腕っぷしには自信のある成人男子が、小柄な老婦人につきまとわれただけでこのありさまだ。もちろん私が怖がりということもあるだろうけれど、女性が同様の被害にあったときの心情は察するに余りある。まったくストーカーというものはシャレにならない。たかがストーカーなどと軽く見ている向きは考え直すように。ほんっとおぉぉぉぉっに怖いんだから!

ほら、振り返ればあなたの後ろにも……って、ええい、須藤、おまえは退場だっ。

[2000.03.01]
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