私が高校生だった頃の話である。
昼食まではだいぶ時間があったような気がするので、たぶん三時間目あたりではなかったかと思う。英語の授業であった。私の席は廊下側二列目の最後尾、田造(たづくり)君は私の斜め前方に座っていた。
田造君と私は単にクラスが一緒になっただけの関係にすぎず、思えばまともに言葉を交わした記憶がない。私がたまたま彼の名前を覚えているのも、単にあまり耳にしない名字だからというのが理由で、いまとなっては向こうも私の名前はおろか存在すら覚えていなくとも不思議はない。田造君もまさかこんなところで雑文のネタにされているなどとは夢にも思うまいて。ふつうは思わぬか。
授業中、指名された生徒が質問に答えられなかった場合にペナルティを課せられるのはよくある話で、このときの英語教師も例外ではなかった。ただちょっとしたヒネりが見られ、回答・無回答(不正解)の差が一定数に達するとペナルティが決定されるのであった。
そして田造君はピンチを迎えていた。瀬戸際だった。土俵際だった。彼はあと一回黒星がつくと規定回数をオーバーしてしまうのだ。ペナルティが何だったのかまでは覚えていないが、何であろうと勉強がらみで余計な労力は使いたくないのが健全な高校生男子たる姿である。彼は祈っていたはずだ。自分が指名されないことを。彼は欲していたはずだ。近未来アイテム石ころ帽を。
しかし運命の神は非情だった。そんな彼こそが真っ先に指名されてしまったのだ。なんてありがちな。
英語教師は黒板に書かれた英文の意味を田造君に問うている。それは不幸中の幸いといえた。その問題はつい先ほど授業でやった内容を少しばかり変形しただけの、いわばサービス問題だったのだ。授業を聞いていれば解けないほうがどうかしている。もっとも私のクラスは最初から聞いていない者と常にどうかしている者ばかりだったのだが。田造君はどうか。うむむ、彼はいかにも聞いていなさそうだなあ。もちろん、私はどうかしている方だ。ばかだし。
指名された瞬間、田造君はびくりと肩を震わせ、恐る恐る視線を上げた。救いを求めるように英語教師と視線を交わしたのち、あきらめたようにのろのろと立ち上がった。その口は一文字に固く結ばれ、視線はちらりと黒板に向けられると手元のノートに落とされ微動だにしなくなった。彼はやはり聞いていなかったのか。
うしろの席、つまり私のとなりの級友が田造君に答えを伝えようとしている。背中を突つきながら小声で何度もくりかえすのだが、田造君には届いていないらしい。いや違った。田造君はちらとうしろを振り向くと絶望的な表情を浮かべて小さく首をふったのだ。不可解な行動だった。念のため断っておくが、たまに授業中に抜け出してパチンコにいったり屋上で麻雀していたりとほどよく青春を謳歌する田造君は、不正を決して許さないといった正義感とはまったく無縁といっても差し支えない男だ。その彼がなぜ友の善意を蹴ってまであえてイバラの道を進もうとするのか。田造君、いまうしろの彼が口にした言葉を復唱するだけで君は窮地を脱することができるというのに、なぜそうまでして沈黙を守ろうとするのだ。
不意に私は奇妙な点に気がついた。彼の右手に握られているものだ。今は授業中であり、そこにあるべきは本来シャープペンシルや鉛筆などの筆記用具でなければならないはずだった。だがそれは。箸だった。チョップスティック。チュッパチャップスじゃないよ。うるさい黙れ。箸だ。箸でノートは書けないだろう。なぜ、箸が。そこでようやく私は彼の特技に思い当たったのである。
私はすべてを悟った。彼の胸中いかなるものかは知りようもないが、彼の口内は見当がついた。いまのいままで私に気取らせなかったその腕はやはりたいしたものだ。しかし神業とも称えられた彼の特技がここではあだになったのである。オノレの技を過信していたのであろう。あまりにタイミングが悪かった。なるほど、それでは答えられまい。「わかりません」の一言すら発することができまい。いや彼は答えを知っているはずだ。なにしろ問題は彼自身がいまおかれた状況を示しているのだから。
苦悩の表情を浮かべ沈黙する田造君に英語教師はペナルティ確定を宣言する。力なく腰をおろす田造君。さあ、もういいだろう。はやくその口の中のものをなんとかしたまえ。これを教訓に次からはもっと慎重にやろう。青春に挫折はつきものだ田造君。そのくやしさをばねに明日を生きようじゃあないか。
問題には私が代わりに答えよう。
「そのとき彼は食事中だったので、質問に答えることができませんでした」