ずいぶん前になるが配偶者の人とフランス料理なるものを食しにいったのである。われわれ夫婦はふだんから質素な暮らしをしており、なぜかと問われればそれは貧乏だからとしか答えようがないのだが、ともかくそれまでは外食といってもファミリーレストランがせいいっぱいであったところを、べつになにかの記念日というわけでもないのにたまたまおカネがあったという理由でそのときばかりはフンパツしたのであった。たしかお一人さま七千円のコースであった。なんだか冷静になってみるとふつうに暮らしていればわれわれ夫婦二人で三週間は食べられる額である。もしかしてぼったくりだったのか。
予想はしていたが、店内に入るなりひどくハナヤカでオゴソカな空気が私を窒息させようとした。流れるBGMはクラシックときていやがる。入り口にぼけっと突っ立ったまま、店の人が声をかけてくれるのを待つほんの十数秒ほどの時間がおそろしく長く感じられた。そのあいだ必死に「ここは単に豪華なファミレスだ。BGMはドラクエの城の音楽だ」と自分にいい聞かせる以外に私になにができたというのだ。
席に案内され、腰を下ろした瞬間にどおっと汗が吹き出した。ここでぶはあ、と思い切り息を吐きおしぼりで顔をこころゆくまでぬぐいたい衝動にかられたが、それをやってはすっかりオヤジでありかつ反おフランス的な行為に思われたので気力を振り絞って思いとどまった。そもそもおしぼりがなかった。かわりにフィンガーボールとかいうものがあって、これに入っている水で指先を清めるのだが、濡らした指はなにで拭けばいいのかわからず途方に暮れてしまったりもした。仕方なく乾くまでぶらぶらさせていたのだが、なんだかそんな自分がひどい田舎者のように思われて泣きたくなってしまった。
料理はコースと決めていたし、予算も決まっていたのでほとんど悩むことはなかったのだが、ひどく小心者である私にとってもっとも気がかりだったのはワインを選ぶことで、ソムリエとかいう人が満面の笑みをたたえながら「ワインはいかがなさいますかボンジュール」なんて尋ねてきたらどうしよう、うっかり「ウィ、とりあえずビール」などといってしまわないだろうかと戦々恐々としていたのだけれど、メニューを見るとわれわれが注文したコースのところにオススメワインが書いてありそれを頼むことにしてことなきを得たのであった。ビールもあったが頼まなかった。あれはきっと罠にちがいない。
「お客さま、失礼ですがビールをご注文なさいましたねジュテーム」
「う、あ、いやその」
「わがおフランス料理にビールですかコマンタレブー」
「す、すみません。その、デキゴコロで」
「ふん、ばかめ。そんな言い逃れが通じると思うかメルシー。引っ立てろ!」
「ウィ、ムッシュ!」
「うわあああああああっ」
恐ろしい話である。
だいたいただメシを食いに行っただけでなんであそこまで緊張せねばならんのだ。なにか理不尽ではないのか。呼んでもいないのにことあるごとによってくるんじゃない。こちらが作法どおり食っているかどうかを監視しているのか。間違ったらどうなるのだ。やはり引っ立てられるのか。なんだよ肉がどうしたって。ああもう、いちいち焼きかただのソースの種類だの聞きにくるんじゃない。人がなに食おうが勝手だろう。だいたいきさまらはなにをするにも人に聞かなきゃできんのか。自立しなさいと校長先生にいわれなかったのか。ちくしょうわかりましたよミディアムでお願いしますソースはこっちで。
表面上は冷静を装っていた私だったが、その無理がたたって心にひどい傷を負い、そのあとしばらくはフランス料理ということばを思い浮かべただけではげしい動悸息切れめまいに襲われるようになってしまった。顔はかっかと熱くなり、冷や汗がながれ、思わず布団に突っ伏して「うが」などと短くうなってみたりするようになってしまったのであった。
ええい、今度はなんだ。なになにチーズを選べと。好きなだけ選んでよいのか。わかったよオレの負けだよ選べばいいんだろ、じゃあこれとこれとこれね。ほいほいありがとさん。
皿に分けてもらったのはきれいで美味そうな見慣れぬチーズが三切れほど。そうなんだよ三つも選んでしまったのだよなに考えてんだまるっきり貧乏人根性丸出しじゃないか。ああもういいよわかったよ。私はなんだかすっかりナゲヤリな気分でその一つをひょいと口に放り込んだのであった。ぱくり。
……。
……。
……おおジョセフィーヌ、今夜は勘弁してくれ。
不覚にも涙がにじんだ。
チーズ侮りがたし。フランス人侮りがたし。あれは本当に食いものだったのか。それともなにかの罰ゲームだったのか。経済的精神的肉体的ダメージのジェットストリームアタックを受け完膚なきまでに打ちのめされた私は、そのあとの料理を楽しむ余裕ももはやなく、ついに失意のまま店をあとにしたのであった。まあ配偶者の人はいたく喜んでくれたのでそれがせめてもの救いではある。