あれは私が小学校四年生だったときのことである。その日の四時間目はお習字の授業であった。墨汁に筆先を浸したのちにでべでべと半紙に文字を記入するあのお習字である。より厳密に記述するなら毛筆の授業である。
私はお習字が嫌いだった。なにしろお習字はその全般にわたって面倒くさい。まずお習字のある日は習字道具という余計な荷物が増えたのがいやだった。直前の休み時間に机をわきによけて床にスペースを確保しておかなくてはならずドッヂボールができないのもいやだった。気がつくとあちこちに墨汁が付着して汚れているのがいやだった。後片づけでは使った筆をいちいち洗わなければならないのもいやだった。だからといって洗うのをさぼったりすると次のときに筆ががびがびのかちこちに固まっててあまつさえかびが生えてたりするのもいやだった。おまけに私はいまもむかしも字が下手だ。お習字はかくもことごとく私という人間に敵対する要素を満載していたのである。
さて小学校の四時間目といえば、あとに控えているのは楽しい給食の時間である。いつもの「サル、ゴリラ、チンパンジー♪」の軽快なメロディーとともに突入する憩いのひとときである。頃合いを見計らって担任教師佐々木が撤収命令を出した。作品を提出し、道具を片づけ、ごみと化した失敗策を捨て、がたがたごとごと騒々しい物音を立てて机を配置し直すわれわれ。やがて鐘の鳴る五分ほどまえに後片づけが完了、全員が着席し鐘が鳴るのを待っていた。
ところが。
担任教師佐々木は教室の後ろのすみのほうに丸まった半紙がひとつ転がっているのを発見すると、いかにも不機嫌な声でうなった。いきなり威嚇である。イカク。グルル……とかシャーッとかそういう感じのあれである。いや、雰囲気がね。
「そのごみは、誰のだ」
誰もこたえない。少なくとも私にはこたようがなかった。私が出したごみでないことは間違いない。そのごみの存在するポイントは私が占有したスペースからはだいぶ距離があったし、なにより私は提出用の一枚をてきとうに仕上げたあとは級友である日食拓也(ひじきたくや)と遊んでいたのだ。ごみなど出るはずがない。
「ごみは自分で片づけなさい」しつこく念を押す担任教師佐々木。「自分で」
ああ、ばか。こういわれてしまっては心当たりのない者が動くわけにはいかないではないか。さわやか良識派で人気者の井上くんが腰を浮かせかけたのにだいなしだ。だいたいこんな一触即発の雰囲気で犯人が名乗り出るわけがないじゃないか。そもそも犯人にその自覚がなかったらどうするのだ。というか、誰も自分のごみだと思わなかったがためにその丸まった半紙はそこに存在するのではないのか。
静まり返った教室に四時間目の終了を告げる鐘が鳴り響く。ほかの教室からはにぎやかに給食の準備をはじめる音が聞こえる。気まずい。あまりにも気まずい。なんて融通がきかないんだ担任教師佐々木。どうしててきとうに誰かを指名して捨てさせるだけのことができないんだ。
担任教師佐々木はおもむろに立ち上がると「サル、ゴリラ、チンパンジー♪」が流れはじめたスピーカをオフにした。ぶちっ。うぐぐ、これは給食はおあずけという意味なのだな。犯人が名乗り出るまできさまらにめしは食わせねえという決意表明なのだな。犯人にその自覚がないかもしれないという可能性はきさまの頭の中にはこれっぽっちもないのだな。
私はごみを放置した級友よりもこの石頭で融通のきかないへっぽこ教師に腹が立った。たかがごみ一つではないか。そのためにクラス全員を緊張状態に陥れてどうしようというのだ。誰かがたった一つのごみを処理し忘れただけでクラス全員が昼飯抜きに相当するとでも本気で思っているのか。こんなチンケかつ無意味な懲罰は権力志向の無能学級委員、中島浩二(なかじまこうじ)だってしないぞ。教師としての、いや、大人としてのプライドはないのか。それにこの状況でもし犯人が名乗り出たり、当のごみである丸まった半紙を展開したところに何者かの記名があったら、そのものが無事で済むはずがないことに思い至らぬのか。つるし上げだぞ。きさまは教師でありながらいじめ(当時はそんな概念はなかったが)を誘発しようとしているのだぞ。
しかしながら小学四年生の私がそんなやるせない苛立ちを表現するための言葉など持ち合せているはずもなく、ただ悶々と内にかかえたままオノレの机をニラんでいたのであった。モンモンモンモン。
時間は刻々と過ぎてゆき、ついにわれわれは給食にありつくことができなかった。楽しみにしていたうなぎのかば焼きという名のハモのかば焼きをわれわれはついに食すことができなかったのである。そのあとどうなったのか、誰がそのごみを捨てたのかについては残念ながら覚えていない。ただひとついえるのは、やっぱり私はお習字が嫌いだということである。お習字に罪はないのだが。
ところで担任教師佐々木よ。どうせバレていないと思っているのだろうがきさまが「みんなで話し合いなさい」と席を外した二十分のあいだに職員室で自分だけ給食を食っていたことはのちほど校長先生がうっかり滑らしたその口によって明らかなのだぞ。きさまのヒレツな行為はみんなが知っているのだ。
そうだ、そうだったのだ。うわあ、よくよく考えてみるとこりゃひでえ。なんだかすごいぞ担任教師佐々木の悪行。思えばあれもこれも、いくら子ども相手だからってやっていいことと悪いことがあるんじゃないのか。いまならカクジツに社会問題だぞ。くっそう、あったまきた。ぜってえゆるさねえぞ担任教師佐々木っ。お習字にわびろばかもん。