雑文祭の縛りではないが、それはいつもいきなりやってくる。笑いの衝動はこちらの都合などお構いなしに唐突にこみ上げる。特に、絶対に笑ってはいけない場に限って。
私が中学生の頃である。教師Sは説教モードに入り、授業は十分以上に渡って中断されていた。クラス全体が静まり返っている。教師Sが腹を立てた理由については失念してしまったが、何か下らない事で教師Sがヒステリーを起こしたのである。良くある事だった。授業中騒がしかったとか、指名された生徒が誰も回答できなかったとか、その程度である。
教師Sは中学生など子供の集まりと舐めているところがあって、実際にその通りだが、それでこちらが論旨の破綻に気付かないとでも思っているのか、滅裂な理論を平気で持ち出す傾向があった。滅裂である自覚に欠けていた可能性も否定できない。
そんな訳で、説教とは言っても内容はそれこそ子供の理屈、ほとんど感情的なものであり、要するに単なるヒステリーで、生徒としては反省するどころか「学校のような特殊閉鎖空間を職場としていると、長時間接している生徒の思考レベルに感化されてしまうのだな」などと他人事のように同情などしていたものである。
本件の主役は私の隣席であった女生徒Rである。ヒステリー教師のがなり声とうんざりした四十の沈黙が支配する空間で、その時彼女は危機の真っ只中にいた。私は先程から女生徒Rが隣でくっ、くっ、と妙な咳をしていのが気になって、うつむいたまま目だけをそちらへ向けた。すると、女生徒Rは口元を手で押さえ、目を血走らせている。肩は震え、見開かれた目は机を凝視していた。すわ、何事か、とは思ったものの、何しろ説教の最中であるから迂闊な行動はとれない。目を付けられて集中攻撃をされては堪らないと、私は深慮遠謀の末そのまま密かに見守る事に決めた。
やがて言いたい事はひとまず言い尽くしたのか、教師Sがその口を閉じた。必然的に教室は静寂に包まれる。御存知の通り、唐突な静寂が支配する空間には不思議な力がある。通称、突発性静寂性笑い空間。この空間は根源的な笑いを招来してしまう性質を持っているのである。ガイアもビックリだ。リミテッドまで出る始末。だから何の話だ。
静寂を破り、いきなり「ぶっ」と吹き出す音が教室に響いた。次いで堰を切ったような笑い声。女生徒Rだ。彼女は具合が悪かったのではない。何故かは知らないが、笑いを堪えていたのだ。何の前触れもないその笑い声にクラス全員が仰天して女生徒Rを見た。
くくく、ひっひっひっひっ、ぷははははははは。
女生徒Rは机に突っ伏して笑い続ける。教師Sは呆然としている。緊張の反動がある分、笑いはすぐには収まらない。ひい、ひい、と早くも酸欠状態に陥りながら、女生徒Rは笑い続けた。
さてここに興味深い事実がある。笑い空間内に於いては笑いは伝染するのだ。例えば徹マン三日目に誰かがうっかり音高らかに放屁でもしようものなら、連鎖によって十分以上笑いが止まらない事は皆が承知の事と思う。厳密にはこちらは疲労性消耗性笑い空間と呼ばれ区別されるが、元々人は何らかの要因によって意識が脱線すると容易に他人につられてしまう。その意識脱線を生じさせ易くする場が笑い空間であると言えよう。
教室のちょうど反対側で、とうとう誰かがつられて笑い始めた。それが引き金になり、あっという間に教室は爆笑の渦に包まれる。こうなっては教師Sとて例外ではない。怒りに任せて言いたい放題ぶちまけた後の束の間の放心状態であった彼女もまた、笑いの魔の手に落ちてしまった。先まで顔を真っ赤にして怒鳴り散らしていた教師が笑い出したのである。教師Sも一応は生徒たちを注意をしなければならない自分の立場を認識していたのであろうが、どうにも説得力がない。
ひひひ、何が、そんなに可笑しいの。ひひひ、静かに、ひゃひゃっ、し、くくく、静かにしなさイヒヒヒヒヒ。
更なる笑いを誘発してどうする。どうにもこうにも、イヒヒヒヒヒ、とは何事か。これで笑うのを止めろと言う方が無茶である。教師Sの狂態に教室全体の笑い声は更にボリュームを増した。何が面白いのかなどこの際問題ではない。とにかく止まらないのだ。手の施しようがない。おそるべしは笑い空間の魔力である。
流石に声が大きすぎたか、隣の教室で授業をしていた我がクラスの担任の教師Tが文句を言いに来た。教師Sがひーひー言いながら涙目で謝る。どっ。その様子を見て我々はまた笑ってしまう。そうこうするうちに、このあまりにも下らない状況を理解した教師Tにまで笑いが伝染してしまった。
ぷぷっ、じゃあ、くくっく、もう少し、くく、静かにして下さいね、わはは。そう言い残して教師Tは自分の教室に戻っていった。教師Tの来訪で一段落した我々は、多少の余韻を残しつつ、なんとか正気を取り戻しかけた。ところが。
次の瞬間教師Tが授業をしている教室から爆笑が響き渡った。教師Tが生徒達にこちらの状況を話したのであろう。それが立ち直りかけた我々を、再び笑い空間に引きずり戻した。当然授業は台無し。終業の鐘が鳴って暫くの間、笑いは止まらなかった。最初から笑っていた女生徒Rに至っては、とうとう貧血を起こして保健室に運ばれてしまった。笑い空間侮り難し。
さて、後に彼女に笑いの理由を聞いたところ、「教師Sの怒り方がお母さんにそっくりだったから」だそうな。
なんだよそれ。