§ asagi box §

余韻

九時過ぎに起き出して、キッチンで遅い朝食をとる。足元にまとわりついてくるイブキの首のあたりを、行儀悪く、つま先で掻いてやりながら。

両親はそれぞれ朝から出かけている。たぶん、夜までは帰ってこない。

食欲がなかったので、トースト一枚と紅茶だけ。ミルクは、低温殺菌のノンホモジナイズド。以前は車を出して買いに行ったものだけれど、最近では、近所でもわりと容易に手に入るので助かっている。ジャムは友花里の手作り。と言っても、冷凍のフルーツミックスに、レモン果汁を少量加えて砂糖で煮込むだけの、手軽で簡単なものだ。それでも、市販品では味わえない、果物らしい香りと酸味が楽しめる。なにより、紅茶に合うのが良い。

ひと息ついて、ぼうっとしていると、自然、昨晩のことが思い出される。

(家まで送ってもらっちゃったな)

顔がにやついて仕方がない。

(送ってもらったんだ)

右手を見る。滝沢は昨日、この手を、ずっと離さず、握っていてくれたのだ。友花里を家の前まで送って、そこで少しだけ、雑談している間も、ずっと。ただ、手をつないでいただけなのに、あれほど満たされた気持ちになったことはない。

その手の感触を、滝沢の体温を、汗を、何度も思い返しては、ベッドの中で身をよじったりなんかしているから、眠りに就くのが遅くなってしまったのだけれど。

ひとつだけ、贅沢を言うなら、たとえ、その場の勢いでも、雰囲気に流されたのであっても構わないから、最後に、キスが欲しかったところではある。ふたりとも子供じゃないのだし、分かってくれても良さそうなものなのに。今日び、高校生だって、もう少し積極的ではないだろうか。

もっとも、その鈍さもまた、滝沢らしさなのだ。友花里としても、十分、承知している。故に、そのジレンマたるや、いかほどのものか知れよう。ただ、このままいけば、近い将来、我慢がきかなくなりそうな予感が、友花里にはあった。

(会いたいな)

夕べ別れてから、丸一日も経っていないというのに。

(会いたいよ)

本当は、毎日だって会いたいのだ。一日中、そばにいて欲しい。モーニングティーを一緒に楽しめたら、言うことなしだ。

我慢の限界なんて、すぐそこに見えている。今からでも、会って、抱きしめて、キスをして。もちろん、今すぐ会ったところで、あの滝沢のことだから、そんなことにはなりっこないけれど。せめて声だけでもと、携帯を手に取ってみても、声を聞いてしまったら、ますます、自分の気持ちが抑えきれなくなりそうで。

「ああもう、切ないな」

友花里に、急にしがみつかれて、身動きが取れずに困ったイブキが、悲しそうな声で鳴いた。

「おっと、ごめん」

笑って、謝る。どうも、このところ、情緒不安定でいけない。

気分を、変えよう。食器を洗浄器に放り込み、ただし、ティーポットだけは、いつものように、手で丁寧に洗うと、友花里は浴室へ向う。

招待

昼過ぎ。自室のベッドに転がって、昨日滝沢にもらった、痴漢対策の資料に目を通す。長い文章を読む気分ではなかったけれど、今日は特に予定もなかったし、メールでの話題になればと思って読み始めたら、これが、ことのほか面白くて。うなずいたり、感心したり。

なにぶん量が多いので、ひと区切りついたところで、滝沢にメールを送る。明日から、実践してみます。少し遅れて、返事。滝沢も、インターネットをしながら、暇をつぶしているとのことだった。お互いに時間があると分かると、また、会いたい気持ちが湧いてくる。メールさえもじれったい。

時計を見れば、一時半にもなっていない。せっかく、この家の場所が分かったのだ。ちょうど両親も出かけていることだし、今から誘ったら、来てくれるだろうか。メールからの情報では、滝沢の家から友花里の家まで、移動だけなら、一時間もかからないはずだ。

ただ、いきなり誘うのも気が引ける話で、何か口実が欲しいところではある。

そして、口実は、あった。あの、エルメスの、カップ。滝沢は昨日、使う機会がなくて、そのままになっていると言っていたのだ。

(よし、いける)

思い切って、電話をかける。

「あ、どうも。どうしました」

いきなりで、びっくりさせてしまったかもしれない。滝沢の声は少し、慌てていた。

「突然、すみません。今、お時間大丈夫ですか」
「はい。はい。全然、大丈夫です」

本当は忙しくても、滝沢ならそう言いそうな気がした。ただ、せっかくの休日の午後は、無限ではない。友花里は、慎重に、話を切り出すタイミングを計る。

まずは、昨日の話から。送ってもらったことの、お礼とお詫びはしっかりと。そして、別れた後のこと。今日、起きてから今まで何をしていたか。痴漢対策のことも、改めてお礼を言って。この後、滝沢に用事がないことを、もう一度確認する。

そして。

「そう言えば、カップがそのままだって言ってましたよね」
「え。カップ」
「ほら、エルメスの。使ってないって」
「ああ、はい。はい。そうです。すみません」

また謝っているし。

「よかったら、今からうちに来ませんか。ちょうど暇してたんです」
「え。今から、ですか。迷惑じゃありませんか」

なんだか、腰が引けている。やっぱり、女性の家を訪ねることに、抵抗があるのだろうか。

「今、わたしひとりですから。うちの両親、夜まで出かけてますし、大丈夫ですよ」
「え。え。ええと」

ますます、声が小さくなってしまった。友花里の両親との遭遇を警戒している訳ではなかったようだ。単に面倒なだけなのか、本当は用事があるのか。滝沢が渋る理由は良く分からなかったが、とにかく、時間が惜しい。それに、少しくらいは、わがままを聞いて欲しかった。

「美味しい紅茶、いれますよ。駄目ですか」

友花里が、いちおう、冗談にも聞こえるように、わざとらしく、拗ねたような声で言うと、滝沢の返事は、早かった。

「とんでもない。ちょっと、びっくりして。すぐに伺います」
「カップ、持ってきてくださいね」

じゃあ、今から準備します。そう言って、滝沢は電話を切った。友花里は、しばらく、携帯を耳に当てたままで。やがて、大きく息を吐く。自分のことながら、思っていた以上に、緊張したらしい。少し、手が震えている。それでも。

(やった)

小さくガッツポーズ。滝沢が、来る。

そうと決まったからには、のんびりはしていられない。着替えて、化粧をして。お茶請けには、昨日、母親が焼いたマフィンを出そう。それから、生地が残っていたはずだから、今からスコーンを焼いて。ジャムはある。生クリームは、冷蔵庫にあったかな。

「あ」

手早く、着替えと化粧を済ませたところで、友花里は、ようやく気づいた。

夜まで誰もいない。これは、考えてみれば、すごい誘い文句ではないか。いくら滝沢だって、驚くだろう。思わず、声に出して、笑ってしまう。もし、勘違いさせてしまっていたら、申し訳ないことだ。

(でも、それならそれで、いいかも)

足取り軽く、友花里は部屋を出る。

午後の紅茶

「どうぞ、かけてください」

居間まで通したところで、さっそくイブキにじゃれつかれて、律儀にその相手をしてくれている滝沢に、ソファを勧める。

「今、お茶をいれますね。紅茶とコーヒー、どっちにしますか」
「ええと。紅茶を、お願いします」

つい聞いてしまったけれど、コーヒーと言われたら、困ってしまったところだ。サイフォンはあるけれど、友花里自身は、普段はコーヒーを飲まないから、豆の量など、勝手が分からないのだ。ひとまず、ほっとする。

滝沢から、カップを受け取る。使われた様子どころか、箱から出された形跡すらない。

「本当に、そのままだったんですね」
「うちは、緑茶しか飲まないので」

じゃあ、湯飲みの方がよかったですか。そう聞くと。

「いえ。これは、飾っておきます」

そう言って、滝沢は笑った。いつも会うときよりも、くつろいだ様子。ただそれだけのことで、友花里は嬉しくなる。

「温めてきますね」

カップを持って、キッチンへ。軽く洗って、水気を切り、ティーポットとともに、沸かしておいたお湯を注ぐ。それから、残ったお湯を捨てて、冷蔵庫から取り出した、ミネラルウォーターを火にかける。もちろん、軟水。お湯が湧くまでの間に、いろいろと準備。居間を覗くと、滝沢はイブキの相手をしてくれていた。

お湯が沸いたところで、まずはポットを、スプーンや皿などと一緒に、先に運んでおく。滝沢の好みが分からないので、茶葉は、缶をいくつか出して。ダージリン、セイロン、キーマン、アールグレイ、ラプサンスーチョン。

「好きな葉とか、ありますか」
「紅茶は、午後の紅茶しか飲んだことがなくて」

困らせてしまった。まあ、普段飲まない人なら、そんなものだろう。

「じゃあ、ダージリンかな」

無難なところにしておく。一瞬、魔がさして、ラプサンスーチョンにしようか迷ったけれど、いくらなんでも、紅茶初心者の滝沢相手には、悪ふざけが過ぎるだろう。久美子に出した時みたいに、イブキを人質にとられて、お詫びとして、無茶な要求をされることはないだろうけれど。

ポットにお湯を注ぐと、葉が踊って、お湯がさっと紅く染まる。陶器製にくらべて、保温性に劣る印象があるけれど、グラスポットの最大の利点は、こういう視覚的なところにあると、友花里は思っている。

あんまり鮮やかに色が変わるので、すぐにでも飲めそうに見える。しかし、紅茶は渋味が先に出るから、美味しく飲むためには、少し長めに蒸らさなくてはならない。そのことを滝沢に告げて、友花里は、一旦、キッチンに戻る。

「これ、昨日、母が焼いてくれたんですけど」

マフィンやスコーンを乗せた皿をテーブルに並べながら、しかし、スコーンは自分が焼いたということは、滝沢が過剰にほめてくれる様子を想像したら、気恥ずかしくて、言いそびれてしまう。気合を入れた料理ならともかく、スコーンくらいで感心されたら、逆に、寂しいような気がして。

滝沢に手料理を食べてもらうのは、いつ頃になるだろうか。そんな想像も、楽しい。

ちょうど良い蒸らし時間は、身体が覚えている。適当な頃合で、友花里は再びキッチンに戻り、カップを持ってくる。テーブルに並べながら、このカップのおかげで、今のふたりの関係があるのだと思うと、友花里の胸には、感慨深いものがあった。

(あとは、ミルクと、お砂糖と)

忙しく動き回りながら、友花里は、小さな幸せを、かみしめる。

豊かな沈黙

紅茶の話。お菓子の話。休日の過ごし方。犬の話。ペット論。

いろんな話をした。滝沢の質問は、珍しく、友花里のプライベートに踏み込んだものが多かった。それは、決して不快なことではなく、むしろ、これまで、あえて話すような機会のなかった、取るに足らない、些細なことまで、滝沢が興味を向けてくれたこと、知ってもらえることが、友花里には嬉しかった。

外で会う時とは違って、時間を気にする必要がなかったからだろうか。時々、沈黙が降りる。お互い、一言も発することなく、ただ、時間だけが過ぎて。そこには、違和感も、気まずさもなく。あるがままに。

滝沢の影響で、友花里も、パソコンを買おうと思っていることを伝えると、その時ばかりは、滝沢は、子供みたいに目を輝かせて、本当に楽しそうに、色々なことを教えてくれた。友花里には、滝沢が言うことの半分も理解できなかったけれど、ひとまず、メールとインターネットができれば十分ということで、次の機会に、買い物に付き合うことを、約束してもらう。

普段、滝沢は、あまり、友花里の目を見て話をしてくれない。大事な話をする時は、頑張ってくれるけれど、普通のおしゃべりになると、すぐに、ふらふらと、目をそらしてしまうのだ。

それだけが、友花里は、いつも、残念だったのだけれど、今日の滝沢は、少し違っていて、会話が途切れると、友花里の目をまっすぐに見て、静かに微笑んでくれるのだった。無理をしている様子もなく、本当に、自然に。滝沢自身にしてみれば、友花里の家に招かれたことによる、些細な心境の変化に過ぎなかったのかもしれない。その自覚があったのかすら疑わしい。それでも、何が友花里の心に響いたのか、背筋が泡立つような、静かな幸福感に、わけもなく、声を上げて泣きたくなる。

天気の良い、日曜日の午後。時間が、ゆっくりと過ぎてゆく。

「そろそろ、親御さん、帰って来ませんか」
「そうですね」

滝沢に言われて時計を見ると、確かに、もうそんな時間だった。

「まずいですよね」

本当に心配そうな顔。いつもの、滝沢だ。これはこれで、ほっとする。

「大丈夫ですよ。うち親には、滝沢さんのこと、いっぱい話してありますから」
「え。そうなんですか」
「週末によく会っていることとか。今日呼ぶことは言ってませんけど、別に、家に呼んだくらいで怒ったりはしませんよ」

滝沢を見て、両親がどんな感想を抱くか、友花里は興味があったけれど、明日は平日だし、なにより、滝沢の居心地が悪そうだったので、無理に引き止めるつもりはなかった。取り急ぎ、カップを丁寧に洗って、箱にしまい、滝沢に返す。

「駅まで送りますね」

友花里がそう言うと、滝沢は、急に真面目な顔つきになって、きっぱりと、断った。

「駄目です。帰りが、危ないですから」

(仕事の帰りには、いつも、普通に、ひとりで通る道なんですけど)

そうは思ったものの、滝沢の心遣いが嬉しかったので、おとなしく従うことにした。家の前まで出て、そこで、お見送り。

この日、ひとつだけ、悔やまれることがあったとすれば、それは、ずっと機会を見計らっていたのに、隣に座りたいと、ついに言い出せなかったこと。

(結構、いい雰囲気だったんだけどな)

自分もたいがい、肝心なところで臆病なものだ。友花里は肩をすくめ、家の中に戻った。

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