友花里と滝沢のメールのやり取りは、一日も欠くことなく続いていた。
昼に何を食べた。今日は暑い。テレビは何を見た。仕事でこんなことが。内容は、そんな他愛もないものばかりだけれど、それだけに、友花里には、滝沢がずっと身近に感じられることが嬉しかった。
それでも、友花里は、滝沢との関係について、決して楽観視はしていない。
なにしろ、滝沢は、鈍いのだ。この上なく、鈍い。
何気ないメールにも、それとなく、時にはあからさまに、友花里は色々なサインを埋め込んでいるつもりなのだけれど、滝沢がそれに気づいたと思われる返信をしてきたことは、一度もなかった。
友花里が送ったメールを、ほんの少し踏み込んで解釈するだけで、少なくとも、友花里には現在、彼氏がいないこと、軽い気持ちで男性と食事に行けるほど、乾いた性格ではないこと、ずっと自分と一緒にいてくれる男性を必要としていること、そして、それが滝沢以外ではあり得ないこと。このくらいは読み取ってくれても良さそうなものなのに。
友花里がどれほどの覚悟と願いを込めたメールを送っても、しかし、滝沢からの返事はいつも、文面を、文字通りにしか解釈していないと思わざるを得ないのだ。素直と言えば、聞こえはいいのだけれど。
(滝沢さんは、わたしに友だち以上の感情はないのかしら)
(わざと、かわされているのかも)
(実は、彼女がいたりして)
時折、薄ら寒い考えが頭をよぎる。
もちろん、そんなはずはないと友花里は信じている。
彼女がいる可能性は、メールのやり取りの中で、本人が否定している。過去にいたかどうかはともかく、今現在、いないことは信じていいだろう。口先だけの嘘をついて、女性をあしらうような狡猾さや器用さは、友花里の知る滝沢とは無縁のものである。なにしろ、滝沢昇という青年は、真面目で、率直で、不器用で、それから、鈍感で、鈍感で、鈍感で、とにかく鈍感なのだ。
そして、友花里は、そんな鈍感さも込みで、滝沢を好きになった。いまさら文句を言えた義理ではない。
しかし。
(面白くない)
そう。面白くないものは、面白くないのだ。断じて、愉快ではない。
なんだか、自分ばかりが好きになってしまったみたいで、悔しいじゃないか。だいたい、最初に友花里を食事に誘ったのは滝沢の方だ。いつの間にか、こんなに、どうしようもないほど好きにさせておいて、しかも、毎晩メールを交換するほど親しくなったというのに、ここに来て、肝心の告白がないというのは、あまりにも、あんまりな仕打ちではないか。面と向かって言うのが照れくさいのなら、電話もある。メールでもいい。
(いや、待った、今のなし)
それは、やっぱり、嫌だ。絶対に、直接、本人の口から聞きたい。
それ以前に、毎日欠かさずメールのやり取りをしていると忘れがちになるけれど、これまでに、友花里と滝沢が直接顔を合わせたのは、たった三回なのだ。冷静になってみれば、確かに、告白には時期尚早の感がある。
慌てることはない。友花里は、そう自分に言い聞かせる。
滝沢との距離は、確実に近づいている。友花里自身の気持ちに、疑いも迷いもない。だったら、後は、滝沢を信じて、待てば良い。
(でも、ちょっと早すぎたかな)
約束の時間まで、まだ四十分以上あった。周囲にはまだ、滝沢の姿は、ない。前回も、その前も遅刻してしまったから、友花里としても、今回こそは、何がなんでも、早く来るつもりだったのだ。
(まあ、いいか。待たせるより、待つほうが気が楽だし)
それから、滝沢が来るまでの三十分。
友花里は、想い人を待つ側の、時間とともに加速度的に高まる緊張感と、視界にその姿を捉えた時の高揚感を、この日初めて、存分に味わうことになる。気の休まる暇なんて、ないと思った。
親しくなるほど、余裕がなくなっていくような気がする。
滝沢との食事は、もちろん、楽しい。会うたびに、滝沢は、友花里の知らない新しい一面を見せてくれる。少しずつ、ぎこちなさが抜けて、良い面にしろ悪い面にしろ、その自然な姿が見えてくることが、友花里には、たまらなく嬉しかった。
では、滝沢はどう思っているのだろう。メールを送りあうようになって以来、ずっと気になっていた。滝沢は、あまり顔文字を使わないので、たまに、すごく冷たい印象のメールがあって、びっくりすることがある。返事そのものはまめに送ってくれるから、友花里の考えすぎだと、頭では分かっていても、どうしても、臆病になってしまう。
(わたしと一緒にいて、滝沢さんは楽しんでくれているのかな)
(それとも、わたしだけが、ひとりで盛り上がっているのかしら)
もちろん、滝沢は、露骨に退屈そうな態度を見せることはない。話し上手ではないけれど、友花里の言葉には、誠実に応えてくれているし、時々は冗談を言って笑わせてくれる。
しかし、それは、相手が自分でなくても、同じなのではないだろうか。
今ここにいる、高村友花里は、彼にとって特別な存在にはなり得ないのではないか。自分の愛情表現が、滝沢にきちんと伝わっているのか、それすらも分からない。つまらない女だと思われたくなくて、滝沢の言葉には、いちいち大袈裟に反応してしまう一方で、煩わしいと思われていないか、急に不安になる。
滝沢は、自分に、好意以上の感情を抱いてくれていると、友花里は信じている。それが、自意識過剰の自惚れではないことを、友花里は確かめたかった。はっきりと、言葉や態度で表現しなければ、伝わらないことはいくらでもある。それらは、表現することで形を与えてあげないと、いとも容易く失われてしまうことを、友花里は身に染みて知っていたから。
(まずいな。変なお酒になってる)
せっかくの楽しいひとときを邪魔する、幼稚で後ろ向きな自分を、このところ、友花里は持て余し気味だった。困ったことに、こいつは、アルコールが入ると、途端にやる気を出すらしく、たちが悪いことこの上ない。
自然に、会話が途切れる。店内の喧騒に、突然放り出されたような錯覚。友花里が次の言葉を見つけられずにいると、滝沢が口を開いた。
「通勤の件なんですけど」
そう言えば、今日はそのことを話し合う予定だった。
「出勤時間を少し早めたら、ぎりぎり間に合うかも知れませんね」
後ろめたさで、胸が苦しい。
数日前、友花里は、出勤時に痴漢に遭った。その時、憂鬱な気分を振り払いたくて、それから、心配してもらいたくて、少し甘えた気分で、大げさに落ち込んだ様子のメールを、早朝にもかかわらず、滝沢に送ったのだ。
「高村さんが降りる駅から、おれの会社までだと」
言ってしまえば、気を紛らわせるための、単なる愚痴のつもりだった。痴漢なんて、満員電車に乗っていれば、普通に遭ってしまうもので。気持ち悪いし、不愉快だけど、いつまでも引きずるような問題でもない。
「やっぱり早起きが大変ですかね」
滝沢からの返事は、すぐに返ってきた。期待した以上に、滝沢は友花里の身を案じてくれた。一生懸命、友花里を励ましてくれた。そして、自分がいればそんな目には遭わせないのにと、一緒に通勤しても良いとまで、言ってくれたのである。
正直、気分が良かった。浮かれていた。好きになった男性から、ここまで言われて、果たして、嬉しくない女性がいるだろうか。
「乗り換えに失敗すると、確実に遅刻するな」
その後のメールで、出勤時間や利用する駅を確認したところ、実現が難しいことは分かっていたから、友花里としては、もし、一緒に通勤できたら楽しそうだと、その程度にしか考えていなかったのだ。
「あのう、高村さん」
滝沢が、どれほど心配してくれたのか、ちっとも考えていなかった。その後にも続いたメールで、友花里は、滝沢の誠意に改めて触れて、自責の念に駆られることになる。そして、今も。
(わたしは、馬鹿だ)
わざと心配をかけておいて。無責任に喜んで。滝沢が、このまっすぐな青年が、その場限りの、調子のいいなぐさめを口にする人間かどうか、そんな分かりきったことに、なぜ、思いがいたらなかったのか。表面的な部分だけを見て、ひとりで勝手に浮かれたり、落ち込んだり。こんなにも、自分のことを真剣に考えてくれる相手に、これ以上何を望むつもりだったのだろう。彼の誠意こそが、愛情表現そのものではないか。
「本当に、大丈夫ですか」
「はい。ごめんなさい。大丈夫です」
なんとか、自然な笑顔が作れたと思う。こんな自分勝手な、ある意味、馬鹿馬鹿しい理由で落ち込でいてさえも、滝沢は、友花里を、本気で心配してくれるのだ。心配してもらえれば嬉しいけれど、負担になることは避けたかった。
結局、時間の都合から、一緒に通勤することは、どうしても難しいという結論に達すると、そのことを、滝沢は、申し訳なさそうに謝った。
(謝らなきゃならないのは、わたしなのに)
それから、滝沢は、インターネットで調べてくれたという、痴漢対策を印刷したものを、友花里に手渡した。その資料を指しながら、要所を丁寧に説明してくれる滝沢を前に、友花里は、礼を言い、ただ、ただ、頭を下げることしかできなかった。
嬉しさと、悔しさと、情けなさと、恥ずかしさと。いろんな感情が混ざって、きっと、ひどい顔をしていたに違いなかったから。
「お疲れですか」
帰りの電車で、滝沢が心配そうに声をかけてくれた。確かに、疲れてはいたけれど、それは、絶対に、滝沢のせいではない。浮き沈みの激しい、自分の感情に振り回されてしまっただけだ。おまけに、気分を改めようと、二軒目の店では、いつもよりもお酒が進んでしまった。
「ちょっと酔ってるんですよ」
冗談めかして応えるのが精一杯だった。もう少しで、滝沢と別れなければならないと考えると、切なくて仕方がない。今も右手に感じる、滝沢のぬくもりが失われるのが惜しい。
きっかけは、待ち合わせ場所から、最初の店に移動する時。人ごみではぐれないようにと、滝沢の方から、友花里の手首を取ってくれた。ちゃんと掴んでますから、と。最初の食事のときに、友花里がそうしたように。
その後の信号待ちで、友花里は、思い切って、滝沢の手をほどくと、逆に、その手のひらを握り返した。初めて会ったときよりも、ずっと余裕のある滝沢の態度が、なんとなく、悔しかったから。軽い仕返しのつもり。
その時は、驚く滝沢の顔を見て、溜飲を下げた気になっていた。
あれから今まで、店の中以外では、ずっと手をつないでいる。
滝沢の手は、大きくて、暖かくて、頼もしくて。そっと力を込めると、応じるように、優しく握り返してくれる。仕返しなんて、ただの言い訳だ。本当は、理由なんてどうでも良くて、ただ、その手に触れたかっただけで。
視線を感じて、目を向けると、滝沢が、うつむいていた友花里の顔を、少し身をかがめて、心配そうに、下から覗き込んでいた。まるで、小さな子供がそうするように。つい、友花里の頬が緩む。
(これだから、ずるいんだ)
つかまえておかなければ心配になるほど、滝沢の存在は、友花里の中で大きくなっていく。それなのに、本人は、そんなことにはお構いなしに、まるで、何事もなかったかのように、友花里のそばにいてくれるのだ。
「家まで、どのくらい歩くんですか」
別れの駅が近づいてきた頃、滝沢が聞く。
「十分ちょっと、ですね」
「じゃあ、家まで送ります」
「いえ。悪いですから。いいですよ」
びっくりして、とっさに断ってしまってから、友花里は後悔した。
(惜しいこと、したかも)
最初は、そのくらいにしか感じなかった。
ところが、実際に家まで送ってもらうことを想像した途端、その甘美な情景で、友花里の頭の中は、たちまち、いっぱいになってしまった。いつもは、ひとり寂しく歩く、薄暗い住宅街を、となりには滝沢がいて、手は、もちろん、つないだままで。少しだけ、寄り添うように。
やがて家の前に着き、惜しむように、お礼を言って。そして。
お別れの。
(あああ、なんて、もったいないことを)
友花里は、自分がいかに大きな失敗をしたかに気づく。のんびりと、憂鬱な自分に酔っている場合ではなかった。少しでも長く、一緒にいたいくせに。どうして、わざわざ、自分から、せっかくの、千載一遇の機会をふいにしてしまうのか。
滝沢の性格では、一度断られた以上、今日のところは、ふたたび自分から申し出ることはないだろう。その引き際の良さが、今は、かえって恨めしい。
でも。もしかしたら。
そんな空しい期待をよそに、ふたりは無言のまま、電車は駅に着き、ドアが開く。
「また、メールしますね。おやすみなさい」
にくらしいほど平然と別れを告げる、滝沢への不満もあったのだろう。その瞬間、友花里は覚悟を決めた。迷っている時間はない。この時ばかりは、酔っていて良かったと、つくづく思う。
滝沢の言葉に、友花里は答えず、黙ってドアへと向かう。つないだままの、その手を引いて。滝沢の戸惑いが、伝わってくる。
(お願いだから、何も言わないで)
全身の血液が、頭に上る。顔が、熱くなる。心臓の音が、耳の中で鳴っているみたいに、大きく響く。ほんの数歩の距離が、絶望的に遠い。口の中が乾いて。頭の中が、真っ白になって。
そして。
ホームに降りたふたりを残して、電車は行ってしまった。しばしの放心。友花里の酔いは、すっかり醒めている。
(次からは、控えよう)
そんな反省よりも前に、友花里には、することがあった。頭の中は、長い雨が去ったように、驚くほどすっきりしている。
「すみません。やっぱり家までおねがいします」
友花里は、滝沢に向き直ると、いちおう遠慮がちに、改めて、言った。いまさらとは思わない。自分の希望を、はっきりと言葉にして、滝沢に伝えることが大切だったから。
「はい。大丈夫ですよ」
滝沢が快諾してくれることは、分かっていた。友花里が知っている滝沢なら、絶対に断ったりはしないと。疑う余地など、どこにもない。
無理を、していたのだと思う。自分のほうが年上であることを、意識しすぎていたような気がする。結局、自分は、滝沢に甘えたかったのだ。それを、変に我慢したりするものだから、おかしなことになってしまった。
自分は、もっと、滝沢を信じて良い。
滝沢は、きっと、自分を受け止めてくれる。
酔いとともに、不安も憂鬱も抜け落ちた顔で、友花里は、滝沢とふたり並んで、ゆっくりと、改札へ向かった。