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おめかし

食事の誘いを受けてから十日。いよいよ約束の日である。

友花里は悩んでいた。

あと二時間もしたら出なければならないのに、着ていく服が決まらない。それというのも、食事の約束を交わしてから数日後、待ち合わせの場所と時間を確認する電話で、滝沢が、あまりにも可愛いことを言ったせいだ。

「おめかしして行きますけど、笑わないでくださいね」

自信なさそうな滝沢の声を聞いて、友花里は、なんとも言えない気持ちで胸がいっぱいになった。なんて愛らしい男性だろう。見栄も、虚勢もない、本当に素直な男の子。

自信過剰は禁物だけど、滝沢は、間違いなく、自分に対して好意を示してくれている。そうでなければ、カップの礼とはいえ、食事に誘ったりはしないだろう。友花里自身、滝沢に対して、悪い感情はない。むしろ、彼の勇敢さには、尊敬の念を抱いている。

そんな中、その相手が、年下ではあってもひとりの男性が、自分のために慣れない努力をしていると知って、嬉しく思わない女性がいるだろうか。そのひたむきな想いに報いずにいられようか。

「それじゃあ、わたしも、おめかしして行きます」

だから、友花里はそう答えた。しかし。

いくら尊敬していると言っても、滝沢のファッションセンスに対する評価は話が別だ。あの日の滝沢の服装を思い出すと、細かくは覚えていないが、ごく当たり前に、衣服に無頓着な男性のものだったという印象がある。彼の言うおめかしについては、多少割り引いて考えなければならないだろう。

待ち合わせの目印代わりに、当日の彼の服装の予定は聞いている。黒い服、灰色っぽい上着、白いズボンとのこと。これだけの情報で、いったいどうしろと。

とにかく、自分はあまり気合を入れないほうが良いだろう。そんなことより、滝沢がどのような格好で来ても、そこそこ外さないような選択をしなければならない。それがせめてもの気遣いというものだ。

悩んでいると、部屋のドア越しに母親の声。

「友花里、イブキちゃんが入りたがってるよ。わ、何この部屋」

ドアを開け、隙間から友花里の部屋を覗き込んだ母親は、その惨状を見て、呆れ、絶句した。まるで強盗に入られたかのように、部屋中に衣類が散乱している。友花里はその真ん中で腕を組んで座っていた。イブキはイブキで、自分を抑える母親の手を振り切って、部屋への侵入を試みる。

「お母さん、イブキ入れちゃ駄目。閉めて」

友花里はイブキを部屋の外に押し戻してドアを閉める。これから出かけるというのに、服を犬の毛まみれにされてはかなわない。

「ところで、あなた、滝沢さんとの約束の時間は大丈夫なの」

呑気な調子で、ドアの向こうから母親が言う。気がつけば、家を出る予定だった時間まで、十五分を切っていた。

掴んでますから

結局、待ち合わせの時間には五分ほど遅刻してしまった。聞いていた服装を頼りに、滝沢を探すと、すぐに見つかった。ほぼ同時に、向こうも友花里を見つけてくれたらしく、遠くから会釈してくれたから間違いない。

「すみません、遅れてしまって」
「いえいえ。こんばんは。お久しぶりです」

正直、見違えた。記憶にある二週間前の滝沢と、雰囲気がぜんぜん違う。

(本当におめかししてきたよ、この人)

眼鏡をかけていたと記憶していたけれど、今日はかけていない。髪も、ずいぶん短くなっている。全体的にさっぱりとして、清潔な感じだ。

挨拶もそこそこに、滝沢の案内で店に向かう。電車で、二駅。そこからは歩き。

電車の中で、雰囲気変わりましたね、と言うと、自分なりに頑張ってみました、と真顔で答える滝沢だった。

駅を出ると、土曜の夜ということもあって、とにかく人が多い。人ごみを掻き分けて進むのもひと苦労だ。滝沢は歩くのが早く、油断すると、置いていかれてしまいそうになる。それでも、こちらを心配してくれている様子で、頻繁に立ち止まったり、振り返る滝沢に、友花里は、大丈夫ですよ、と声をかけた。

そうですか、とまたすまなそうな滝沢。

(ああもう、緊張しすぎだよ滝沢さん)

なんとも言えない滝沢の表情に、友花里は思わず反応してしまった。

「はい。ちゃんと掴んでますから」

そう言って、友花里は、滝沢の手首を掴んだ。掴んでしまった。一瞬、自分でも何をしたのか分からない。びくり、と滝沢の肩がすくんだのが伝わって、友花里は慌てて手を離す。そこで我に返った。

(やってしまった)

「あ、すみません。急に掴んでしまって」
「いや、ええと、大丈夫ですよ」

滝沢はそう言ってくれたものの、友花里は顔から火が出る思いだった。知らず、浮かれすぎていた。きっと滝沢の好意に慢心していたのだ。滝沢が年下であることで、調子に乗っていた感も否めない。

(ああ、軽蔑されたかもしれない)

はっきりと口数が減ってしまった滝沢の横顔を盗み見ながら、それから店に着くまでのわずかな間、表面上は必死に平静を装いながらも、友花里は自己嫌悪に押しつぶされそうになっていた。

小細工

店に着く頃、友花里は開き直ることにした。

(いつまでもへこんでいたら、それこそ滝沢さんに失礼じゃないか)

今日は、自分は誘われた立場ではあるけれど、そんなこととは関係なく、滝沢に楽しんでもらえることが第一だ。自分がどう思われるかなんて、気にしていられない。

店内に入ると、混んではいたものの、滝沢が予約を入れておいてくれたので、すぐに席へと通された。

店の雰囲気は、質素で落ち着いた感じでありながら、和食と聞いて想像していたよりも、ずっとお洒落な印象。そのイメージの差は、二週間前の滝沢と、今日の滝沢の雰囲気の違いを思わせた。

二人が席に着いてほどなく、メニューが来る。友花里が普段行くような店では見かけない料理ばかりが並んでいて、イメージがわかない。もともと和食には詳しくないけれど、創作和食というのだろうか、ぴんとくるものがひとつもないのには参ってしまった。

仕方がないので、友花里は滝沢にお勧めを聞いて、それに決めた。

それから、滝沢が生グレープフルーツハイを注文したので、友花里もメニューを見直して、巨峰サワーを追加する。

「付き合わせてしまってすみません」

勝手にアルコール抜きだと思い込んでいた友花里が慌てて注文を追加したせいか、滝沢が謝るが、実際のところ、店に来る途中の失敗のこともあって、友花里は飲みたい気分だったので、むしろ好都合だった。

やがて食事が来る。滝沢のお勧め料理は、本当に美味しかった。

食事中は、友花里から話を振ることが多かった。煩わしく思われてはいないか。そんな不安を覚えながら、それでも沈黙が怖くて、友花里は喋り続けた。

話題はやはり、二人が知り合った、あの日の出来事に集中したけれど、場の勢いもあって、滝沢のことを色々と聞き出すことにも成功した。不安と緊張の中、うっかり地が出てしまった友花里の、少しぶしつけな質問にも、誠実に答えようとしてくれる滝沢の態度が嬉しかった。

料理も食べ終わり、お互いのグラスもそろそろ空こうとしていた。間もなく、店を出ることになる。そこで、お別れだろうか。もう、これっきりなのか。

(そうなったら、滝沢さんからまた誘ってもらうことを期待するのは絶望的だ)

ようやく打ち解けてきたところなのだ。まだまだ話したいことはある。友花里は意を決する。

「滝沢さんは、こういうお店にはよく来られるんですか」
「あ、いえ、実は。興味を持ち始めたのが本当に最近のことで」
「そうなんですか」

今日食べた料理の話題から、慎重に会話を誘導する。自分の言葉に、滝沢がどう反応するかはほぼ読めている。誘導は難しいことではなかった。

「わたしは、実はこういうお店を探すのが趣味なんです」
「へえ。そうなんですか」
「でも、よく一緒に回っていた友達に彼氏ができちゃって」

久美子のにやけた顔が思い浮かぶ。あんちくしょう。

「最近ほとんど行けなかったんですよ」

少し間を置いて、友花里は滝沢の反応を待つ。

「ははあ。そうですか」

滝沢の反応はそれだけだった。まるっきり、気づいていない。

(難しすぎましたかそうですか)

がっくりと崩れ落ちそうな気持ちを無理やり引っ張り上げながら、友花里は精一杯の平常心で笑顔を作って言った。

「ですから、今日は本当に楽しめました」
「ああ、それは良かったです」

その、心底安心したような滝沢の笑顔に、友花里の気持ちもあっさり持ち直す。滝沢は小細工を弄する人間ではないし、だからこそこちらの小細工も通じない。歯痒くはあったけれど、それが良く分かったし、不快ではなかった。

支払いを済ませて店を出ると、友花里は気を取り直して、たまたま近くにある、自分のお気に入りの店に滝沢を誘ってみた。快諾する滝沢。

最初からこうすればよかったのだ。今後のことはどうなるか分からないけれど、今日という日を大切にしたいと、友花里は思った。

また電話します

互いに腹具合は十分ということで、二軒目はお酒主体だった。

他愛もない会話を交わすうちに、あっという間に時間が過ぎる。

そんなに飲んだわけでもないのに、店を出る頃には酔いが回ってしまって、どんな話をしたか、細かいことは思い出せない。ただただ、楽しかった。

二人で駅に向かう間、会話はほとんどなかった。酔って、少し疲れていたこともあったけれど、友花里の頭の中をいろんな想いがぐるぐる回って言葉にならなかったのだ。

滝沢とはまた会いたいと友花里は思う。一緒にいて本当に楽しかった。

それは一軒目の時に分かっていて、だからこそ、最初の店で暗に誘ってみたのだけれど、芳しい反応が得られなかったことが、やはり気にはなっていたのだ。滝沢はそういう駆け引きめいたことに鈍感なのだと思ったし、そう納得しようとしたものの、今になってみると、分かっていて無視された可能性は否定しきれない。

二軒目に誘ったときも、あれは本当に快諾してくれたのか、急に自信がなくなった。仕方なく、義理で付き合ってくれたのではないと言い切れるのか。本当は予定があったところを引き止めて、無理に付き合わせてしまったのではないか。

もし日を改めて、友花里から連絡したら、迷惑がられたりはしないか。馴れ馴れしいと呆れられたりはしないだろうか。楽しかったのは自分だけではないのか。悪い考えばかり浮かんでくる。言葉少ない滝沢の表情が暗いように思えて仕方がない。

駅に着いて、同じ方向だと知った時には微かに安堵した。もう少しだけ、余裕がある。友花里のほうが先に降りるまでに、滝沢の言葉を待つ時間があると。

しかし、その想いも、自分が降りる駅が近づくに従って、虚しく思えてきた。

(何かわたし、図々しい期待をしている)

自分から、言えばよいのだ。何も難しいことではない。滝沢が自分を誘ってくれたように、自分から彼を誘うだけのことだ。滝沢はむげに断ったりしないと、頭では分かっている。

それなのに。また一緒にお食事に行きましょう。その一言がどうしても言えなかった。何が不安なのか、自分でもさっぱり分からない。

いよいよ、駅が近づく。

「わたしは次で降りますので。今日はありがとうございました」

言いたいことは色々あったはずなのに、これだけを言うのが精一杯だった。どうしてだろう。滝沢の顔がまともに見られない。

「いえいえ。こちらこそ」

滝沢の声は遠く、痛い。

友花里の痛みなどお構いなしに、電車は減速しながら淡々と駅に滑り込み、無神経に停車して、無愛想にドアが開く。

「それでは、おやすみなさい」

そう言って、友花里は駅に降りた。もう何も考えられない。なんとか振り返り、小さく手を振る。最後に、しっかりと、滝沢の目を見て。

今日一日でずいぶん近くなった、優しい目。少しだけ、気が楽になる。

不思議な縁で出会った。食事もしたし、お酒も飲んだ。立派に知り合いだ。お互い、連絡先も知っている。二度と会えなくなるわけじゃない。今日は少し、変な酔い方をしてしまっただけだ。滝沢から連絡がなければ、こちらから電話をしたっていいのだ。

ようやくそう思えた時。まさにドアが閉まる寸前。滝沢が叫んだ。

「また、電話します」

その時、自分はどんな顔をしていただろうか。全身の力が抜ける。滝沢を乗せてホームを出て行く電車を見送りながら、友花里はその場に座り込みそうになるのを必死でこらえていた。

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