朝起きると、携帯に着信履歴が残っていた。友花里には見覚えのない番号だ。着信があったのは夕べの二十三時。その時間はまだ起きていたはずだけど、無音にしていたから気づかなかったらしい。留守電にはメッセージは残されていない。
(ワンギリか、間違い電話かな)
そう考え、履歴を消そうとして、ある可能性に気づいて思いとどまった。
(滝沢さんかもしれない)
彼が昨日というタイミングで電話をくれることは、意外ではあるけれど、ありえない話ではなかった。友花里は、電車での一件があった翌日、つまりおとといの月曜日に、さっそく滝沢へのお礼の品として、ティーカップを送ったのだ。それが昨日届いて、そのことでわざわざ電話をくれたのかもしれない。
カップはエルメスで、仕事の関係で安く手に入れることができた。形式だけと片付けられない程度には、良いものを選んだつもりだ。お礼の手紙も添えた。友花里の感謝の気持ちに偽りのないことを、どうしても伝えたかったから。
そうしなければ、友花里たちを警察沙汰に巻き込んでしまったことが、ずっと彼の負担になっているような気がして落ち着かなかったのだ。もちろん、友花里たちは、滝沢に責任があるなどとは思っていない。友花里としては、感謝の気持ちをきちんと伝えて、少しでも安心してもらいたかった。
着信が滝沢からのものだとすれば、カップを喜んでもらえたのならもちろん嬉しいし、手紙に書きそびれたこともいくつかあったので、直接話せるのなら、いい機会だとも思う。
でも。
(ほんとうに、滝沢さんからだろうか)
冷静になってみると、実際のところ、あまり自信はない。友花里が受けた印象では、滝沢という青年は、真面目ではあっても、こういうことに細やかなタイプではなさそうだ。そして、滝沢の人物はともかく、友花里が知る限り、こういったやりとりに関して、男性は総じてうとい。加えて、若いとなればなおのことだ。やはり、着信が滝沢のものである可能性は低いだろう。
一方で、滝沢からである可能性も、友花里は捨てきれないでいる。滝沢の住所を見た限りでは、まず間違いなく実家だろう。母親あたりが気がつく人であれば、息子に電話をかけさせても不自然ではない。もっとも、その場合は、かかってきた時間が問題になるのだけれど。
いくら悩んだところでらちがあかない。
(こちらからかけてみれば、分かることだ)
友花里は頭を切り替えて、朝の支度を始めた。
昼から何度かかけてみたものの、結局、電話がつながることはなかった。
一度だけ、先方からの着信があったけれど、その時は運悪く友花里の手が塞がっていて、気づくのが遅れてしまった。仕事から帰ってから、もう一度かけて、この日はあきらめることにした。以降は、ほとんど他人の間柄では、電話をかけるにはためらわれる時間帯だ。先方からかけてくるのを待つしかない。それがだめなら、また明日かけてみればいい。
(でも、もし、滝沢さんじゃなかったら)
すっかりカップの感想を聞くつもりでいた友花里は、そう考えたら、なんだか憂鬱になってしまった。あの時の話題もいくつか用意していたのに。
電話を気にしながら、落ち着かない時間を過ごす。
(また、遅くにかかってくるかもしれない)
そう気づいて時計を見ると、間もなく二十二時になろうとしていた。昨日と同じ時間にかかってくるとしたら、先に風呂に入っておいたほうが良さそうだ。もし電話が違ったら、もう一度手紙を書いてみようか、などと考えながら、友花里は支度をする。
母親に声をかけて、部屋に着替えを取りに戻ったとき、電話が鳴った。慌ててとりあげて、通話ボタンを押す。
「すみません。滝沢ですけど、高村さんですか」
「あ、やっとつながった」
つい、思ったことをそのまま口に出してしまう。
案の定、滝沢は、昼間電話に出られなかったこと、遅い時間の電話になってしまったことを、まず謝った。それから、カップが無事に届いたことを教えてくれた。礼を言う様子が本当に嬉しそうで、友花里も安心すると同時に、つられて嬉しくなった。送った甲斐があったというものだ。
それから、あの時の話をした。滝沢がまた謝ろうとするので、滝沢が帰った後でも、みんなで褒めていたこと、感謝していたことを友花里は伝えた。自分でも驚くほど、話したいことがあった。
しばらくして、風呂に入らないのか、と階下から母親の声が響いた。気がつくと、時間は二十二時半になろうとしている。それどころではないので、後で、と答えるが、滝沢にも聞こえてしまったらしい。先に入るように勧められてしまった。
今度はこちらからかけることを約束して、一旦電話を切る。そのまま大急ぎで風呂に飛び込み、素早く頭と身体を洗って部屋に駆け戻った。所要時間、わずか二十分。自己最短記録だ。
「なあに、ずいぶん早風呂だこと」
部屋に戻る友花里に、母親が呆れたように言った。
滝沢は、二回もコールしないうちに電話に出た。思ったとおり、携帯を持ったまま待っていてくれたに違いない。
「急がせてしまったみたいで、すみません」
また謝られてしまった。
「わたし、いつもお風呂はこれくらいですよ」
「そうですか。いや、でも、すみません」
もちろん嘘だ。たいてい一時間は浸かっている。でも、正直に言ったらまた謝らせてしまうだろうし。最初から信じてもらえていないみたいだけど。
話題を変えて、友花里が、両親や友人に滝沢のことを話したと伝えると、電話の向こうでしどろもどろになってしまったのがおかしかった。そして、滝沢らしいとも思った。第一印象からほとんど変わっていない。純朴な青年だ。
電車でのこと。交番でのこと。滝沢が帰った後のこと。
そろそろ話題も尽きようとしていた。滝沢の口数が心なしか少なくなっていることに気づいて、つい長話につき合わせてしまったことを、友花里は反省した。滝沢としては、カップのお礼だけを言うつもりだったろうに。
それでも、友花里は電話を切るのが惜しかった。電話を切ってしまえば、今後滝沢と話をすることは、多分、二度とない。友花里自身があまり頻繁に利用するわけではないから、また運良くあの電車で乗り合わせることも、ほとんど期待できない。
それを、惜しいと感じた。
友花里の感情を言葉にするなら、それは、体験を共有した仲間を失う予感。普通なら、それは形にならないまま失われ、時間とともに忘れられただろう。本人も気づかないうちに。そうなるはずだった。
「ところで」
唐突に、滝沢の声の調子が変わる。会話の流れからすると、すこし違和感のある「ところで」だ。
「頂いたカップ、すごく高価なものですよね。お気を遣わせてしまってすみません」
「いえ、仕事柄、安く手に入るんです」
これは本当だ。
「こちらこそ、かえって気を遣わせてしまったみたいですみません」
「ああ、いえ、それでですね。カップのお礼と言ってはなんですが」
そこまで言って、滝沢が口ごもる。
「あの、一緒に食事でも、いかがでしょうか。ご馳走させてください」
これは、完全に予想外の申し出だった。
短い時間ではあったけれど、友花里は、ここまでの会話で、滝沢がどういう人間か、把握したつもりになっていた。それも、ほとんど確信に近い形で。真面目で、純朴で、照れ屋で、不器用。そしてきっと人見知り。親しい間柄で見せる顔は、ひとまず置いておくとして。
少なくとも、軽い気持ちで、知り合っただけの女性を食事に誘えるようなスマートさはない。はずだ。はずなのに。
(思ったよりも積極的なのか。思ったよりもずっと律儀なのか)
なんとなく、後者のような気がした。
「食事、ですか」
「はい。もし良かったら」
もし、高価なカップを受け取ったことを気にしていて、無理をしているとしたら申し訳ない。これではまるっきり逆効果だ。
「気を遣わなくても結構ですよ。本当に大したものではないので」
「そうですか」
その声には明らかな落胆があった。分かりやすくて、ほんの少し、滑稽なほどに。ひとまず、単なる社交辞令だけで誘ってくれているわけではなさそうだ。普段なら断るところだが、滝沢には恩がある。それに、不思議と、抵抗感はなかった。驚きはしたけれど。
友花里は、滝沢の誘いを受けても良いと思い始めていた。
ただ、もともと最初に礼を言うべきは自分であり、だからこそカップを送ったのだ。この流れでご馳走してもらうのは、道理に合わない。
友花里は、少し考えて、答えた。
「では、割り勘ならいいですよ」
「は。割り勘と言うと」
「ご馳走になるのは悪いので。どうでしょうか」
そもそも、電話がかかってくることが意外だったし、食事の誘いはもっと意外だった。今思えば、あの日の彼の勇気ある行動だって、十分意外なのだ。
意外性の男、滝沢昇。
電話の向こうには、友花里が誘いを受けたことへの驚きと戸惑いを隠しきれていない、友花里が知っている、不器用な青年がいた。