帰りの電車の中、友花里は何度目かのため息をついた。
せっかく街に出てきたというのに、結局、ひとり寂しくランチを食べただけ。店の雰囲気は悪くなかったのだけれど、味のほうは少し期待はずれで、思いのほかがっかりしてしまった。店を出て、なんとなく晴れない気持ちのまま歩いていたら、なんだかどんどん悲しくなってきて、最後は泣き出してしまいたいほどで。
だから今、こんな明るい時間に帰りの電車に乗っている。予定していた買い物はぜんぶあきらめた。
ほんとうは、久美子が一緒のはずだったのだけれど、ふた月ほど前に彼氏ができてからというもの、付き合いが悪い。今日の約束だって、もう二回も延期されていたのだ。いくら相手の休みが不規則で、前もって計画を立てにくいからって、十年来の親友をないがしろにしすぎじゃないのか。いざとなったら親友と彼氏と、いったいどっちをとるつもりだあいつは。
(そりゃ、ふつうは彼氏だろう)
そして、またため息。
気が晴れない理由は、友花里にも分かっている。ひとりだからだ。
ひとりだからつまらない。 ひとりだから寂しい。ひとりだから悲しい。今日食べたランチだって、久美子とだったら美味しかったはずだ。美味しくなくても、一緒に文句を言える相手がいれば楽しかったと思う。日曜の昼日中に女がひとりで食べて美味しいランチなんであるわけない。そういうこと。
友花里にも彼氏がいた時期はあった。五年近くも前になる。友花里は短大生で、彼は同い年の四大生だった。サークルの関係で知り合って、告白されて、断る理由もなかったので付き合い始めて、それなりに深い関係になり、友花里がひと足先に就職して間もなく別れた。自然で、あっけなかった。後悔はないし、悪い思い出でもない。今ここで再会しても、気まずさを感じずに話ができるだろう。
それは、言い換えれば、彼は自分にとってその程度の存在でしかなかったということだ。どこか真剣じゃなかった。彼をちゃんと見ていなかった。そんな自分の不真面目な態度が彼を遠ざけてしまったのだ。別れてからそう気づいて、彼に申し訳ない気持ちになり、少しだけ泣いた。
以来、友花里は彼氏を作ろうと思ったことはない。好意を寄せてくれる人もいたけれど、気づかないふりをした。食事に誘われても、すべて断ってしまった。意識しすぎなのは分かっていたけれど、つい構えてしまう。
もちろん、惜しい気がしないわけでもない。ドラマのような出会いにあこがれる気持ちがないわけでもない。それでも、やっぱり自分は恋愛には向いていないのだと思う。
このところ、こうして不毛に悩む時間が多いのは、歳のせいもあるだろう。四捨五入したらハタチだと言い張っていられるのも、今年が最後だ。両親もそれとなく気にしている様子だし、意識しないのは無理というものだ。
そしてまた、友花里はため息をつく。
不意に、車内が騒がしくなった。見れば、ひとりの女性がやけに威勢のいい老人に絡まれている。こんな時間から、だいぶ酔っているみたいだ。ろれつが回っていなくて聞き取りづらいけれど、とにかく声が大きい。すごく迷惑だ。今日という日はつくづくついていない。
やがて電車はホームに入り、ドアが開く。
すると、それまで絡まれて迷惑そうにしていただけだった女性が、突然老人を一喝した。車内に響く叱咤の声。女性はそのまますばやく電車を降りてしまい、車内の視線は老人に集中する。
一瞬、友花里は老人が女性を追いかけて行くんじゃないかと心配したけれど、当の本人はよほど意表を突かれたらしく、呆けた顔で、小走りに去る女性をただ見送るだけだった。やがてドアが閉まり、電車が再び動き出す。
我に返った老人は、ばつが悪そうに、ぐるりと車内をにらみつけた。みんな、慌てて目をそらす。
「なんだあ、文句があるか、おお」
心臓が跳ね上がった。老人が友花里の座っている席のほうにふらふらと歩いてくる。
(最悪だ。あんまりだ。こっちに来るなよう)
老人は友花里のすぐ手前で立ち止まった。隣に座っている、中年の女性三人組の前。つり革にだらしなくつかまって、ぶはあ、と大きく息を吐く。お酒臭い。気持ち悪い。早く帰りたい。友花里が降りる駅はまだだいぶ先だ。とにかく、次の駅に着いたら車両を変えなくては。
老人は、今度は三人組にしつこく絡み始めた。相変わらず言っていることがよく聞き取れないけれど、すごく苛々していることは分かる。おばさんたちはうつむいたまま小さくなってしまっている。老人はひとりでどんどん興奮していく。怖い。
「だあから、女は黙って男の言うこと聞いてりゃいいんだよ」
ひっ、と三人組のひとりが声を上げた。突然老人がその人の顔に手を伸ばして、顎を引き上げたのだ。大変だ。このお爺さん危ない。なんとかしないと。誰か呼んでこなくちゃ。そう思いながらも、友花里は動くことができなかった。
その時。
「おい、いい加減にしろよ」
友花里の隣、三人組とは反対側に座っていた青年が、老人を制した。聞こえなかったのか、それとも無視する気なのか、老人の反応がない。青年は身を乗り出して、さらに強い調子で繰り返した。
「やめろって言ったんだよ」
顎をつかまれた女性は、いいから、大丈夫だから、そう合図するものの、どう見ても大丈夫と言える状況であるはずがない。これで青年が、分かりました、と引き下がったら、そっちのほうがどうかしている。
「なんだお前は」
老人は女性から手を離すと、彼に顔を向け、電車の揺れにふらつくように踏み出した。ふらふらと友花里の目の前を通り過ぎ、老人は青年の前に立ち止まる。ひとまず女性は助かったけれど、友花里自身にしてみれば、状況はあまり改善していない。老人との距離は先ほどよりも近い。ほとんど目の前も同然だった。
(サイアクだ……)
「さっきからじろじろ見やがって」
「なんですか。警察を呼びますよ」
勝手に呼べ、とでも言いたかったのだろう。老人がほとんど言葉になっていない大声を上げる。そのとき、友花里のこめかみの辺りに、何かが当たった。老人が振り上げた手が、すぐ傍にいた友花里をかすめたらしい。
「きゃっ」
大した痛みではなかったものの、驚いて、反射的に声を上げてしまう。悲鳴に弾かれたように青年が立ち上がり、老人の腕を掴みにかかった。三人組のひとりが隣の車両に向かったのが目の端に映る。人を呼びに行ったのだろうけど、友花里にはそちらを見る余裕もない。
老人と彼はしばらく互いに掴み合ったまま、動かずにいた。緊張のあまり、友花里の息が詰まりそうになった頃。たぶん一分と経っていなかったのだろうけれど、隣の車両からスーツ姿の男性が駆け寄ってきて、なだめるように声をかけながら、二人を引き剥がした。
スーツの男性は、青年にも座るように促すと、面白くなさそうに黙り込んだ老人をドアの近くに引きずって行った。やがて車掌もやってきて、男性が老人を引き渡して隣の車両に戻るのを見て、友花里はようやく解放された気分になった。
友花里の隣に座りなおした青年は呼吸を整えている。彼が老人に掴みかかったのは自分の悲鳴が原因のように友花里には思えて、そうでなくとも、彼が老人を追い払うために行動してくれたことは事実で、なによりこれだけのことがありながら、隣で黙って座っているのも気まずい話で、とにかく、この場合、せめて何かひと言、自分が声をかけるべきなのだろう。ええと。
「迷惑な人でしたね」
わずかに迷った末、とっさに口をついて出た言葉がそれだった。言ってしまってから、後悔する。そのまんまじゃないか。
「本当、迷惑です」
下を向いたままの彼の、不機嫌そうな声にどきりとする。もちろん、状況的に、青年が友花里に対して腹を立てているのではないことは明らかだ。それでも、仮にも恩人に対して、自分ももう少し気の利いたことは言えないものかと、友花里は頭を抱えたい気持ちになった。
ふと、シートを通じて青年の足が微かに震えていることに友花里は気付く。改めて青年を見ると、どこか頼りなく、およそ喧嘩とは縁がなさそうな印象を受ける。歳は二十代前半といったところ。友花里よりも少し年下だろう。酔ってふらふらだった老人のほうがずっと迫力があった。
(けっこう無理したのかな)
そう言えば、老人を制した声も、少しうわずっていたような気がする。だとしたら、なおのこと、偉いのではないか。自分は、すぐ隣でおばさんたちが絡まれているのに何もできなかった。いくら男の人だからって、怖いのに、自分と何の関係もない人のために行動を起こすなんて、なかなかできることじゃない。これはちょっとした感動だ。
不意に青年が顔を上げたので、友花里は慌てて視線をはずす。無神経に眺めていたことを咎められるかと思ったけれど、そうではなかった。車掌がこちらに来たのだった。
「あのお爺さんは警察に引き渡しますので、次の駅で一緒に降りてください」
駅に着いて、車掌、老人、三人組、そして友花里と青年が一緒に降りた。車掌が呼んできた警官が、全員に、名前や住所、先ほどの電車内での様子など、簡単な質問をする。
ひととおり質問が済むと、警官が聞いた。
「事件にしますか」
三人組は、即座に否定した。友花里としても、こんなことにあまり深入りしたくなかったし、いちばん迷惑を被ったのは三人なのだから、彼女たちが事件にしないと言えば、友花里がこだわる理由はなかった。青年は、自分は何もされていないから、と短く答えていた。
事件にはしなくても調書は取らないといけないらしく、近くの交番に場所を移すことになった。酔っ払いの老人は、友花里たちが警官の質問に答えている間に、ひと足先に、別の警官に連れて行かれている。
交番まで歩く間、青年は友花里たちに何度も謝っていた。曰く、自分のせいで大事に巻き込んでしまった、とのことだが、とんでもない。悪いのは酔っ払いの老人であって、青年は、言わばあの場にいたみんなにとっての恩人だ。友花里たちはみなそう言ってねぎらうのだけれど、それでも青年は終始恐縮していた。
交番に着いて、それぞれが調書を取られている間も、青年は謝ってばかりだった。謙遜している様子ではなく、本当に申し訳なさそうで、なんだか気の毒なくらいだ。今は、酔っ払いに立ち向かった時の勇敢さは少しも見えない。どちらかと言えば気弱そうな、でも誠実な別の表情がそこにはあった。三人組のひとりに、いまどきお兄さんみたいな人はいない、と誉められると、少し照れたように引きつった頬が印象に残った。
たぶん、友花里たちに時間をとらせた責任を感じていることと、逆に誉められて、照れや戸惑いもあったのだろう。どうにも居心地が悪くなったらしく、調書を確認していた警官に挨拶し、友花里たちにもう一度丁寧に謝ると、青年はそそくさと帰ろうとした。
なぜか、友花里は慌てた。自分でも理由は分からなかったけれど、このまま青年と別れてしまうことに微かに不安を覚えたのだ。自分は本当に感謝しているのに、きちんと伝わっていないような感覚。そして、それだけではない、形にならない小さな感情。
しかし、青年を引き止める口実があるわけもなく、そもそも理由がない。友花里にできたことは、もう一度、心から礼を言うだけだった。三人組も姿勢を正して、友花里にならう。
「よろしかったら、お名前とご住所を教えていただけませんか」
はっとして、友花里が顔を上げると、三人組のひとりが手帳を差し出していた。青年は困惑した表情を浮かべながらも、その手帳を受け取り、言われたとおりに書き始めた。口実も、理由もあったのだ。
(そうだ。お世話になった人の名前も知らないなんて、逆に失礼じゃないか)
急いでバッグを探り、手帳を取り出す。
「私も、お願いします」
こうして友花里は青年の名前を知ることができた。もう一度だけ、機会を得たのだ。
「ぜひ、お礼をさせてくださいね」
これが、滝沢昇と高村友花里の出会いだった。