ペリータ家に犬がやってきた
1987年6月、場所はメキシコ国ヌエボ・レオン州モンテレイ郊外。
私は、新聞で見つけた
「CACHORRITOS de DALMATA(ダルメシアンの子犬)」という文字に
くぎ付けでした。
お昼休みで帰って来ていたりょうに、「見るだけだから、連れていって。」と言いました。
もちろん内心は「見たら、きっと買ってしまうだろうな。」と思いながら。
りょう「今日はお金を持っていないから、ほんとに見るだけだよ。」
私「うん、たくさんの子犬を見てからの方がいいものね。」
車に乗って、約10分、目的の家に到着しました。
そこでは、40歳くらいのその家の主婦と思われるセニョーラ(既婚女性)が
出てきて、快く母犬と子犬たちのところへ案内してくれました。
私「わぁ、たくさんいる。」
sra.「9匹生まれました。」
私「私、オスがいいわ。 どの子がオスですか?」
sra.「この子たちです。」と、3匹の犬を指差しました。
私「みんな、元気そうね。 いいな。いいな。」
りょう「でも、ずいぶん黒いなぁ。」
sra.「そうですね。 オスたちは、黒の斑点がくっつきすぎて
あまりきれいではありません。 私はメスをお勧めしますよ。」
私「うーん、そうねぇ。 この子なんかいいかな。」
りょう「今日は、お金がないって言っただろ。 さぁ、帰るよ。」
その15分後、私は車の中で、1匹のダルメシアンの子犬と、
食事メモを手にしていました。
名前は「クマ」とすでに決めてありました。

なぜお金がなかったのに手に入れられたかと言いますと・・・。
そのセニョーラの子犬たちは、新聞広告に出してから、しばらくたっているというのに、
まだ1匹も引き取り手が見つかっていなかったのです。
セニョーラは、私の残念そうな顔を見て、「じゃぁ、いくらならあるの?」と訊き、
りょうの持っている全財産で、OKしてくれたのでした。

3日目の朝
私たち夫婦の住んでいた家は、床はすべて大理石という
日本では考えられないような家でした。
メキシコは大理石の産地でしたので、それほど珍しいことではなかったのです。
急にペリータ家に住むことになったクマには、ゆっくり寝かせる小屋もなくて、
1階の階段下に引越し用のダンボールで作った
急ごしらえのベッドがあるだけでした。
それでも60cmの高さを超えられるとは考えもしなかったので、
夜はその中でぐっすり寝ているんだろうなと思っていました。
ところが、その考えは3日目の朝に、あっさり否定されたのでした。
朝、私が寝室(2階にあります)のドアを開けると、目の前におすわりをして
尻尾をフリフリしているクマがいたのです。
あのツルツルした大理石の階段を私たちに会いたい一心で上がってきたのでした。


2匹目がやってきた
クマがやってきて1年半経ったころ、家の中で飼える犬がほしいと思いはじめました。
その時は、クマを中に入れようとは思いもしなかったのです。
「大きな犬は外、小さい犬は中」そんな風に考えていました。
『犬図鑑』を買って、いろいろ検討した結果、<coton
de tulear>がいいと決めました。
(これは今でも、何の種類かわかりません。 マルチーズのようなビジョンフリーゼのような犬です。)
新聞に「探しています」と広告を出しましたが、かかってくるのは、「そんな犬はいないから、プードルはどうか。」とか、
「それは一体どんな犬なんだ。」という電話だけでした。
1週間たって、その犬はあきらめて、別の種類にすることにしました。
それが、ミニチュア・シュナウザーでした。
早速電話がありました。
「3ヶ月になるオスがいるけど、どうだろうか。」という電話でした。
もちろん、すぐに見に行きました。
その買主さんは、獣医さんでトリマーをしていて、シュナウザーのブリーダーでもあったのです。
見に行った私は、その母犬がとっても気に入り、すぐに決めました。
りょうは「売れ残った犬だよ。」とボソッと言ったのですが、私は気にしませんでした。
名前は「文太(ブンタ)」と決めました。



さよなら、文太
文太は、予防接種の最終回がまだ終わっていませんでした。
私は、「クマの獣医さん(レデスマ先生)に、打ってもらえばいいのね」と簡単に考えていました。
私は、文太をすぐにレデスマ先生のところへ連れて行き、注射をしてもらいました。
そして、それから1週間くらい経ったある日、私は庭でクマと遊んでいた文太の様子がおかしいと
気づきました。
遊んでいても、走り回ることがなく、すぐにしゃがんでしまうのです。
レデスマ先生に診てもらうと、「moquillo」(モキージョ)と言われました。
家に帰って辞書で調べると、「鼻みず」とありました。
「風邪かな」と、勝手に判断してしまったのですが、これがメキシコでは、ジステンバーのことだったのです。
文太は、みるみる痩せていきました。歩くのもつらそうになりました。
ちょうど夫とアメリカへ出かけることになっていたので、レデスマ先生に1週間文太を預かってもらいました。
「少し落ち着いていますから」ということで、文太は、我が家へ帰ってきました。
確かにアメリカへ行く前よりは、元気そうに見えました。
犬用の小屋などはなかったので、ダイニングの隅に置いた小さなダンボールに入れて寝かせました。
私が寝たのは、夜中の12時でした。翌朝、6時に起きて、下へ降りていくと、
文太は、私のサンダルを枕に寝ていました。
でも、もう息はありませんでした。小さな舌が口から少しだけみえました。
その傍らには、最後にしたのか、息を引き取ってから出たのか、コロッとしたウンチがありました。
これは後から考えたのですが、ブリーダーさんの使った注射液とレデスマ先生の使った注射液が種類の違うものだったのかもしれないのです。
スペイン語が不自由であったとはいえ、紙に書いてもらうとか、きちんと確認する方法はあったはずでした。
ほんとに文太には、申し訳ないことをしてしまいました。
でも、この後、文太と同じ血が我が家にやって来るのでした。

シュナウザー探し
文太が死んでしまった日、私は友達のところへ行って、一日泣いていました。
ほんとに短い日々でしたけれど、文太はシュナウザーという犬の良いところをたくさん見せてくれました。
活発で、他の犬にも友好的で、ワイヤーな毛は抜けないし、体臭もほとんどありません。
それにあのクリクリとしたまぁるい目がとってもかわいかったのです。
りょうに相談して、私はすぐにまたシュナウザーを探しました。
でもその頃のモンテレイでは、難しかったのです。
アメリカへ行けば、すぐにも見つかりそうだったのですが、
メキシコへの入国を考えると、ややこしい事が色々ありそうで、それはやめました。
そこで、今度はメキシコシティで探すことにしたのです。
シティの知り合いに頼んで、新聞をチェックしてもらうと、程なく返事があり、
街中からは少し離れているけど、子犬が産まれているらしいというのです。
私たちはすぐにシティへ飛んで、子犬を見に行きました。
タクシーで行ったのですが、途中ちょっと危なそうな場所も通りながら、
着いたのは町外れの獣医さんでした。
その獣医さんがブリーダーだったのです。
獣医さんは、奥からケージを持ってくると、台の上において、扉を開けました。
すぐにヨチヨチ歩きの子犬たちが出てくるかと思ったら、出てきたのは一匹だけでした。
他の子犬たちは、まだ小さすぎて、ケージの中でひとかたまりになっていました。
獣医さんが丁寧に一匹ずつ出したのですが、まだ小さくて顔立ちもよくわかりません。
でも、最初に出てきた一匹だけは、あのクリクリの目で、私たちを見ているのです。
メスでした。とっても美人でした。
悩む必要はありませんでした。元気のいい子犬が欲しかったので、すぐその犬に決めました。
メキシコシティからは、飛行機に乗せなければなりません。
その準備もあるし、もう少し大きくなるのを待とうということで、その日は帰りました。
それから約3週間後、「リカ」(rica 英語のrich)はその知り合いによって、モンテレイの私たちのところへやってきました。


失敗
リカは予想通りとっても元気で、愛らしくて、賢い子でした。
庭でクマと一緒に遊ばせていると、チラチラとクマを見てはまねをするのです。
遊びつかれて横になって寝ていたクマが寝返るを打つと、それを見たリカもすかさず同じように寝返るを打つのです。
でも、私はここで失敗をしてしまいました。
クマは外、リカは家の中という生活にしてしまったのです。これが大失敗でした。
日本に帰り、日本の寒さにクマは耐えられないだろうと思い、家に入れることにしたのですが、
家の中は、すでにリカのテリトリーだったのです。(当然!)
いきなり家の中の生活になったクマにも戸惑いがあったでしょうし、それよりなによりリカのクマへの威嚇がすごくて、
何度もけんかをしました。結局クマの方が力があるので、血を流すのはリカなのです。
一度はリカの出血が止まらなくて、獣医さんへ駆け込みました。
「あのまま、仲の良いまま一緒に生活していれば良かった。」と何度も反省しました。

リカの結婚
今では、どのようなきっかけだったのか思い出せないのですが、リカの交配を考えるようになりました。
2度目のシーズンが近づいたころ、新聞に「Busca novio.(恋人募集。)」と載せました。
程なく電話がありました。「コミーノという名のオスです。母犬がモンテレイのチャンピョンです。」
「チャンピョン?もしかして・・・。」と飼い主さんの名前を聞くと、あの文太を譲ってもらったチューイというトリマーさんでした。
コミーノは文太と父違いの兄弟だったのです。
当然チューイは「あの子はどうしたの?」と訊いてきました。私は「モキージョで死んでしまった。」と言いました。
「ちゃんと注射をしてたのに・・・。」というチューイの言葉に私は黙ってしまいました。
そう、私の不注意から死なせてしまったのですから。
でも、チューイはそれ以上文太の話しをすることはなく、私たちはリカとコミーノの交配で合意したのです。
リカとコミーノの交配は、リカがコミーノのところに通うということになりました。
朝、リカをコミーノがいる獣医さんのところへ連れて行き、裏庭で2匹を自由に遊ばせるというものでした。
3日間通いました。
チューイの話しによると、「見ていた限りではうまく交配できたかどうかわからない。一度それらしい行為があったけど、
すぐに離れてしまった。」ということでした。
コミーノはリカの匂いにかなりその気になっていたようですが、リカがイヤがっていたようです。
コミーノは朝は元気に追いかけているけど、午後には疲れて、「はーはー。」いいながら座り込んでいたそうです。
そして、予定通り3日で止めて、ダメだったらまたのチャンスにねということで、
たった3日のリカの新婚生活は終わりとなりました。
リカの出産
犬の出産はかなり正確になされるようです。交配してから62〜63日です。
子犬の成長は、最後の一週間くらいに急に大きくなるようで、母犬が妊娠しているかどうかを判断するのは、
ぎりぎりまで難しいようです。
リカの出産予定はちょうどクリスマスのころでした。
交配からひと月位たったころ、つわりの様な症状があったのですが、特に体調の変化もなく、
私たちには判断できませんでした。
どうしても知りたくなった私たちは、12月にはいるとリカを獣医さんに連れて行きました。
獣医さんはリカのお腹に聴診器を当てると、「たぶん、妊娠してますよ。でも、まだとっても小さな音だから
私の聞き違いかもしれない。」というちょっと頼りない返事。
「また一週間たったら、連れてきなさい。」と言われました。
そして、その次に連れて行ったときには、「うん、はっきり聞こえますね。」と言う返事でした。
それから、リカの出産準備(私たちがするのですが)が始まりました。
2階のひと部屋を出産に使うために暖房の風がその部屋に集まるように調整したり、
母犬が子犬を誤ってつぶして(すごい表現!)しまわないようになった飼育小屋を作ったり(りょうの力作)、
タオルを充分用意したりしました。
そうこうしているうちにリカのお腹はみるみる大きくなり、12月も20日を過ぎると階段も大変そうでした。
でもその時が来るまで、リカは産室には見向きもしませんでした。
12月24日クリスマスイブの夜、私たちはりょうの秘書の家の食事に呼ばれていました。
出かける前、リカはとことこ2階へ上がってくると、産室に入り小屋に出たり入ったりしていました。
部屋の隅をカリカリして、何か落ち着かない様子でした。
「そろそろかな。」と思いましたけど、そのままにして出かけ、私たちが帰ってきたのは夜中12時を過ぎていました。
部屋をのぞくと、リカは小屋に入り寝ていました。
ホッとして、私たちも寝ました。
翌朝、目が覚めるともう9時になっていました。あわててリカの部屋に見に行くと、
なんと6匹も産まれていました。りょうを起こして、「産まれてたんだ。」「全部自分でしたんだね。」などと言っていると、
ポロっと、また1匹産まれました。
どうしても手をかけたかった私は、その子を取り上げてタオルで拭いてあげようとしました。
すると、リカは「う〜」と唸り、「私の子をどうするの?」というような目で見ていました。
私が何にも手をかける必要はなかったのです。リカはすべて自分できれいに子どもたちを舐め、
小屋にも何も残っていなかったのですから。
こうして、文太の血がペリータ家にやって来たのです。