卵、ヒヨコ、そして・・・
その昔、「園芸ニュースレター」を読んでいたら、小さい頃には植物の
鉢にオシッコかけて叱られてた、という思い出話を披露していた方がいた。
んまあ、うちの鉢にそんなことするガキがいたら2,3発グーでぶんなぐって
しまうかもしれないわ、それから親のところに怒鳴り込むって奴かしらねえ??
なんて考えながら、書いた人の名前を見たら、あらいやだ、知り合いでやんの。
その人は既にというか、とっくにイイお年で、改心した、という言い方が適当か
どうかはわからないが、とにかく園芸年齢にして私の4倍くらいはあり、色々
教えてくださる良い人、に育っていたのだった。おお、なんとめでたい!?
そうなれば今度は、かの人はかつての自分とおなじことをしているガキを見つけ
たら一体全体どうするんだろう?とも考えてもみるが、もちろんそんなことわかる
わけがない。結局、日頃のご恩に感謝して、「ぶん殴ったり足蹴にするんなら私も
お手伝いしますんで、是非、呼んでくださいね。」とここに書いておくことになる。
そして、実は私は常日頃、花に犬ションかけさせて平気な人や、その横にフンを
置き去りにする人々のことを花の美しさがわからないということで「犬猫並み」
とか、はては「ケダモノ以下」など書いてきた。が、そういう自分の両親は何とか
人間にせよ、妹は割りとケダモノ以下であるということをも書いておこう。
そうそう、夫は。とりたててケダモノというわけでも、ない、と思うが確かな
ところはわからない。昔、何を考えたか花が終わったコチョウランの株を2株買って
くれたが、育てるのは私の役目で、その花を喜び、ほめるのが夫の役目だった。
人間、ではあるのだろうが何か違うような気がする。
私の方はと言えば、コチョウランを栽培することに興味はなかった。
それでも割りと熱心に面倒をみた記憶はあって、何となれば当時TVで
「1年間にコチョウランの葉を2枚出せたらその人はお上手で、3枚出せたらもっと
お上手です!」とわかりやすいことを江尻光一が言ったからである。
で、おおそうかいとそれにノることにしたのだ。が、しょせんは押し付けられ
栽培で、おしまいには飽きてしまった。で、さっさと株を処分した私が一番人間から
遠いのかも、と書いたら話としては座りはいいかもしれないが、言葉の遊びに
すぎて、内容としてはなんら意味がないな。すいません。
そして、今にしてみればお上手なのは江尻光一の方である。
彼の一言で、この、自堕落でいいかげんで面倒くさがりの私が、コチョウランを
何年も栽培することになったのだ。その舌先を見習わずしてなんとしよう。
ところで、また別のパターンがあって、それは友人のダンナさんであった。
家を新築したは良い。が、庭をどうするかと言われて、こともあろうに趣味家に
向かって「芝生でも張って・・・」と口走ってしまったそうである。おかげで口々に
こてんぱんに?止められて、で、ダンナさんたらどうしたのかと言えば・・・
ムキになってしまった。(^^;)
庭を持たない私に芝生などは無縁なものだが、芝生がどれだけ大変なものかという
ことだけは知っている。「芝生を是非!栽培してみたかったんです!」と言ったのなら
少なくとも止めはしないと思うが、「芝生でも」と言われたら、止める。
相手が嫌な奴なら薦めるかもしれないが、もしかすると嫌な奴でも止めるかもしれ
ない。それくらい芝生はヤバいものなのだ!←説得力あります?
本当に芝生というのは不思議な植物だ。張っている最中の芝生の庭は見ることが
あっても、きれいなままの「個人の」庭、というものを滅多に見ない。
そしてあれは、「軟着陸が難しい植物」とも言えるのかもしれない。まかり間違えれば
園芸全部がいやになり、庭はまだらなままで放置されることになる。
それを思えばこそ、まして彼の知人達はあきらめるよう、言ったはずである。
何がいけなかったのか。趣味家たる彼らが持っていたのは誠意だけで、舌先と策略
には欠けていた、これだけのことによる。その気にさせるにせよあきらめさせる
せよ、敵の性格にももう少し頓着して言い方を考えるべきだったということなのだ。
というわけで、そんな次元を通り過ぎてしまっているらしい現在、私に出来る
ことと言えば、幸多かれと祈る(;^0^)/くらいなもんである。
そして私は、かのダンナ様に3年くらい後に聞いてみたい。
「庭には芝生でも張って・・」と言う相手をとめるかどうかを、である。