ものの考えかた


 アオムシ、ケムシの盛りである。
最近は、ナメクジも見る。いずれも、発見したらすぐ殺す。
苦しまないよう、一発で殺す。さっぱりと、殺す。

 先日、久しぶりにまともにガを見た。大きい、緑がかった水色のアレである。
それは羽の殆どを失った姿で、芝生の隅でぱたぱたともがいていた。久しぶりと
思いながら、毛虫のようになったそれをすぐさま踏み潰してあげた。

 羽がなくなっていたのは、多分隣の不良娘こと通いのネコの仕業である。
うれしく狩りをして、うちの庭で弄び、ネコゆえに、もののあはれどころか
遊びに飽きて中途半端に羽をむしったまんま、芝生に放置したのである。
これだから、こいつは頼りにならない・・殺せよ、ちゃんと。

 庭を持ってから、もののあはれは、「一発で殺す」ことで表現することとなった。
社宅に暮している頃は、アオムシ毛虫が発生するのなんてまれだったから、一種の
「大事件」だったし、戸惑いもあった。今の私はといえば、廊下を歩行するダンゴムシ
を見つけても、「げっ!」ではなくて、「ありゃ。」と言ってつまんで捨てている。

 これは結局、量の違いではないのかと思う。たとえてみれば、一人っ子の親と、
3人くらい子供を持つ親との違いみたいなもので、余計なものが薄まるがゆえの良さ、
と言える。2人男の子を持てばどんな不潔恐怖症も治ってしまうらしいが、すると
私は潔癖症を克服したわけか。←いつ潔癖症だったかなどとは聞かないこと

 引っ越して丸1年したところで、通いのネコは、隣の敷地との境の庭で昼寝を
することを覚えた。ネコは油断しなければ、目をつむることはないらしい。
そういう意味では、昼寝などは油断中の油断である。しかしネコは、名前がわから
ない花の下で、ダイアンサスの一種を座布団にして、なおかつレタスの陰という
場所で寝ている。

 ネコに声をかけるでもなく、いじるでもなく、普通の風景として寝させておく。
私がそうなってきたので、ネコも寝ている。

                  xxxxxxxx

 近くに、昔、公団が分譲した集合住宅がある。
そこは昔のものだからか、割と敷地が広い。広い敷地内では、それなりに果樹が
実ったり、花を咲かせたりしている。それは別にいいのだが。社宅生活を過ごして
きた身の上としては、これが非常に気になる。

 果樹の行く先、花の権利と栽培義務は??当然のことながら、集合住宅には
子供だっていることだろう。植物と暴れ盛りの子供との兼ね合いはどのようにして
決めているのか?花は大事にしたいし、子供は遊ばせたいものなのである。

 だがある日、そこに住む人とおつきあいしている人が教えてくれた。
果樹は皆で分けるのだそうである。要らない人がいても、とりあえず受取って
いただくらしい。では、花の権利と栽培義務は。花は、眺めるだけが権利で、
栽培は・・これも権利らしい。

 どういうことかと言えば、「気が強い人々」だけが、庭で花を栽培する権利を持ち
得るらしい。広い敷地を皆で税金支払っているのだが、そんなことは関係なしに、
他の人には鉢一つだに置かせず、当然、子供なんぞは・・・。ははははは。

 気を強く持って園芸している人々は、いくらでもいるようだ。
私自身、「きれいにしてあげているのよ!」と言いきる人に、社宅で出会った。人は
花ひとつないサムい環境に住む権利もあるはずで、何も誰かにお願いしてまでやって
くれとは言わないはずなのだが。

 もちろん一方で、言いきれる人がうらやましくもある。(^^;)
ただ、「花」を振りかざすなんてこと、私には出来ないのだ。(T^T)/
花は感情や感動と共にあるべきで、花を権威とか権力とかと一緒にするというのは、
どうもこう、なんというか。

 しかし、そこまでして守っている花壇は、さすがに見事だった。それは一言で
言えば労働力のたまもので、つまり、まるで公園のように芝桜だのプリムラだのを
使って、色の地面にしていたのである。一目でわかる「すっげー!」というやつ。

 ここまでやっているんだ。そう思えば、ふと考えつくのは、自分は花をふりかざす
人は好きではないけれど、嫌いという感情に溺れて、別の見方を発見するのを怠って
いたのではないかということである。

 何故そう思ったのか。きっかけは、かの、三尺バーベナである。
1メートルにもなり、空間展開型のソレはベランダでは無理だから、集合住宅の
人にはさしあげられませんねと話してるときに考えついたのである。

 ベランダ栽培では無理だろうけど、広い庭の方にそんな園芸係がいるんだったら、
いっそ「作らせ」てしまえばいいのではないか。大きくなる植物だけでも、共有財産
としてお下げ渡してしまえばいいのでは?

 一体全体、そんなことが可能かどうかはわからない。
多分、庭を独占する人々に対しては反感を持っているはずである。そして、当の
園芸じーさんばーさん達にも好みや都合というものがあるはずだ。

 私は今まで、なるべく花を権威にはせず、折れに折れてやってきたつもりである。
そんなこともあって、懲りている。出来ればこの上、コワイ園芸老人達には、近寄り
たくない。が、事情が変われば、さっさと近寄って行く自信もある。

 で?今回の場合、気の強い園芸老人達に近寄るメリットがあるのは、私ではない。
それは彼らのおかげで地面が使えない、かの公団住宅の園芸好き達である。てことは
私が考えていることは、たんなる余計なお世話でもある。

 結局は、両方がわだかまりをかなぐり捨てたくなるような花の出現を待つことに
なるのであろう。ただそれは、お互いが思っているような、そんなにも特別な植物
ではないと思うのだが。