3度目の春も(1)

4月下旬、遠くの山には、まだ雪が残っている。
だが、平地では八重桜の時期だ。犀川と平行する犀川通りには、八重桜の並木が
あり、それが今、盛りを迎えている。

いつもなら通りの車のうるささを厭い、裏通りを歩く。
その通りを歩くのは、八重桜が咲いてる時だけ、である。様々な品種が植えられて
いるが、中でもお気に入りは薄く緑色がかった中にほんのり紅がさすサクラである。
もちろん、名札などないので名前はわからない。

その通りを犀川上流に向かっていくと、やがて犀川ダムに行き着く。
その途中に、湯涌温泉に抜けられる林道がある。ここは実に素晴らしかった。
雪が消えると、ショウジョウバカマを見ながら通った。ヤマキケマン、キクザキ
イチゲ、ヤマアジサイ、それからいきなりツリフネソウに季節をぶっ飛ばして
いいかどうか、ともかく、それを見る為にここを通ったのである。

素晴らしかった、という言い方になるのは他でもない、ここにきて同じ道に
大学のグラウンドが出来、一方で林道整備が始まってしまったからである。
ブルドーザーが削っているのは土だけではない。やがて私が見た光景はコンクリート
の下に閉じ込められることとなる。

湯涌にも随分通った。地方都市で、車で30分、というのは中々の距離であって、
それは冬なら雪の量を示す。しかし何より驚かされたのは、動物だった。キジが、
脇に家が並んでいるアスファルトの道路を堂々と横切ってくれる。民家のガレージ、
という言い方が既に変だが、その入り口を灰色の鶴が1羽、逃げもせず歩いている。

総湯の風呂帰りらしいおじさんが、色々入れた洗面器を持って向こうから
歩いて来る。おじさん、ふと足を止めて、どうするのかと言えばとなりのあぜ道の
斜面からひょいと蕗のとうを1つ、折り取る。そのおじさんのしぐさの自然なこと
といったら、私には、キジや鶴の存在と一緒だった。

山では、4月もなか頃までは、まだ新緑というほどのものは出て来ない。
まだ地肌が見える山では椿が光を盗んで点々と咲いている。この薮椿の花がそれぞれ
同じようで全然違う。色も違う、花の形も、咲き方も違う。それでいてちゃんと
同じ「椿」であることを現実に発見できたのは、幸運だった。

湯涌から先にある県境には、よそに引っ越してしまった小さな集落がある。
ひとかたまりに立派な墓が並んでいて、これがそのまま集落の家の数となる。
街に近いところに引っ越しても、墓参りは欠かさないのだろう。いつもそこそこの
花が供えてある。

1軒、古いが立派な家がある。家の横には川から水をひいた池がある。先日
通りかかったとき、家の表の小さな畑には石灰を撒いて、春の準備がしてあった。
ぜんまいも栽培しているらしく、厚くもみがらを敷いた小さな畑から、太いぜんまい
が何本も何本も伸びあがろうとしていた。

山菜を「栽培」するというのは本末転倒な気がするのだが、金沢の人は本当に
山菜好きである。だが、ここの人が本当に喜び、好んでいるのは「春」なのだ。
山菜を通して、春という季節を寿いでいるのである。ぜんまい畑は結局、春を
畑で作って売っているのである。

小さな集落だが、きれいな社がある。人がいなくなった集落で、神様はきちんと
一人住まいをなさっておられる。神社に通じる石段はヤマエンゴサクが満開。
そして境内ではエンレイソウがぽつんと1株、座り込んでいた。