列伝
わかぎえふ の「ばかのたば」、そしてもう一冊を読んだ。
これは、劇団を率いる彼女が周囲の役者バカについて書いたエッセイ集、である。
(文庫本なのだが、どこの文庫なのかは、忘れた。読み終わったところで友達に
送ってしまったので、確かめ様もない。)
元々、他人の無知やらミスやらをあげつらうような話はあまり好きではない。
と思うのは多分、自分の無知を知り、なるべく間違いを犯さないよう汲汲としている
にも関わらずやっぱり失敗しているという自覚があるから、かもしんない。
(でもやっぱり笑うには笑ったんですけどね。)
しかし、こんな私でも、文中の、「私、マザー・テレサって、マザー・グース
みたいなもんかと思ってた!」という言葉には開いた口をふさげなかった。
なぜ、笑うに至らなかったのか。
それは、「いやちょっと待て・・」から始まる、自分へのツッコミが頭に
浮かんだからなのだ。以下、その内容。
1)何故、マザー・テレサは「マザー」であって、修道女の一般的な呼称、シスターでは
ないのか。カトリックの世界において、彼女はどのような位置にあるか?
他に修道女がいないわけじゃーあるまいし、沢山いる中であの人は何がどうで
どうしたからあんなふうなのか?マザーってば、すっごいヤリ手じゃん?
2)マザー・テレサがカトリックであると考える理由は、昔法王と一緒のところを
TVで見た、堕胎に反対の立場をとっていると何かで読んだ、あとは修道女で一生
独身だからカトリックだべ、てなもんなのだが。それではプロテスタントに、
修道女はいるのか?いるとしたら、結婚は可能?一体どんな人生送るのか?
3)「マザー・グース」と聞いて、頭に浮かんだのはスカーフでほっかむり、いえ、頭を
くるんだ白いアヒルの絵だったが、あれはマザー・グース(英国の童謡をひと
くくりにしたもんだったよな、確か?)ではなく、ピーター・ラビットの話に
出て来る、多分アヒル、である。ではそのアヒルの名は?
4)グースってガチョウ?それでは ガチョウとアヒルの違いは?
以上のような疑問の答えを知らないことが、私を困惑させたのだったが。
これを読んでる人は、笑ってないで、私に答えを教えて欲しい。
ま、自分で調べるという手もあるんだけどなー。
後日、文庫本を贈った友人から、「私アレを本屋で見かけた時は面白そうだと
思ったけど、これを買ったら私は本当のバカになってしまうと思って、避けたの。
そしたらアンタがわざわざ送ってくるんですもの〜。」と言われた。
・・・そうかそうか、そんなにうれしかったか。
実は、私は私で、「これで証拠隠滅〜!」なーんてね、姑息な笑いをポストの中に
落としこんだのである。これで二人のバカの誕生かあ。人様のお役に立てるとは、
こんなにもいいものかと書いておこう。・・・どこがお役じゃ。
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実家に帰って来た。
去年もそうだったが、今年も「菜の花・桜まつり」に出品することになり、手伝いに
行ってきたのである。去年の時点から、「来年も同じことをするわけにはいかない
だろうなあ。」といった話はしていたのだが、やはり、その危惧は的中していた。
世間が、うちの真似を始めたのである。去年、競争相手のいなかった「フキのとう」
は他の店でも売り始めたし、御近所の家では同じミカンを同じ値段で、少しばかり
多めに入れて売り始めた。
フキノトウの方はたんなる思いつきであり、どこにでもあるものでもあり、元手も
手間もかかっていないので、真似されても一家一同、な〜んとも思わなかった。
しかし、ミカンの方は違う。
元々観光地のミカンを貯蔵用に買う人はいないだろうからと、ちょっとした
おやつモードにしつらえてあったのである。ポケットやバッグに入る個数にして、
バスや車の中に持ちかえり、家に着く頃には食べ終えるようにしてあった。そして、
手間がかかる分だけ割り高にして、儲けが出るようにしてあったのである。
人間というのは、同じ値段なら、量が多い方を嬉々として買ってしまうものだ。
というわけで、せっかく「頭を使った」部分を、お下品にワヤにされてしまい、母は
怒った。そして、同じ値でそれ以上の量のミカンを入れて出してやったのである。
敵さんもそれ程バカではなかったらしく、すぐさま「話し合いたい」といってきた
らしい。ケンカ売る前にそれをやりゃーいいのに、カッコ悪いなあ。
その後どう話し合ったのか、大体本当に話し合うことにしたのか、私は聞いてない。
ともあれ、まつりは一ヶ月間続く。結構な長丁場の間、手を替え品を替え、何か
出し続けなければならない。場所は菜の花たんぼの横の露天市だが、貧乏くさい
品揃えで少ししか商品がないのも、あまりに出来あがりすぎている商品も、お客は
興ざめする。
お客が求めているのは、御近所や友達に行ってきたと言える価値のある田舎。
商品にラベルを貼るとしたら手書きのコピー、ポップはあくまで「純朴」。
商品は珍しくはあっても、客のイメージから外れるほど珍しすぎてはいけない。
今年からは母が漬けた「カリカリ小梅」、そして自家用のつもりで作った「ごま」も
テーブルに加えた。母によれば、「こんなものを出すのは、オマエ達が持って行かない
からだー!」とのことだが、地面が余ってるからというので5kgも作りやがったのは
誰なのか。
小梅もごまも、知らない人はいない商品である。その一方で、「自家用」という現実。
余所の家の味であるということもそうだが、お金のために作ったわけではないという
ことを、ウリにする。5kgのゴマは見るだにうげげだが、売るとなれば、あっと
いう間だ。それなりの値付けで少しでも売れて少なくなればいい、ということにする。
近くの売店では、うちの小梅なんかよりもっと大きな梅干を同じ値段で売っている
らしい。こちらも売れてもうれなくてもいい商品なのだが、母、びびる。バカな。
こちらの小梅を買うお客は、車の中で食べるために買うのである。つまり、手が
汚れず、汁がたれないという理由でカリカリの小梅を選択する。同じようでも、
敵さんの大きくて柔らかくてびしゃびしゃの梅干と競合しているわけではない。
何が大事かと言って、皆が知恵を絞ってみる、ということではないのか。
皆というのは、ウチだけのことではなく、御近所の「真似しい」の家だってそうだ。
同じものばかり売っていても仕方ないと知り、場所柄なりの売り方、品物を
考えてみる、ということである。
で、そんなふうに考えつつも私がむかっとしたのは、さる家がアボカドを出して
きたことであった。何が「むかっ」なのかと言えば、そりゃまあくやしいからである。
あれが飛ぶように売れるわけがないとも思うが、うちより先にそんなものを導入
していたという事実が、くやしいのだ。
アボカドは樹木なので、モノにするにはかなり時間がかかる。「あの家では
そんなに早くからアボカドなんざ育てていたのかしら?」と父に聞けば、父は
「なんだか、矮小の木を知り合いからもらったらしいぞ。」とのこと。う〜ん、さすが
情報が早い。惜しむらくは、もらったときに聞きつけて来て欲しかったな。
そう、こうやって「まつり」の素人売店は成立していく。
まつりの、残り半分をどう乗り切るか。売るためにどうするかではなくて、何を
売るかが問題だ。そろそろ、筍が出始める。切花にするつもりのキンカンは、
木にネットをかけなければならない。去年は、さてと思ったところでヒヨドリに
やられたからである。
3月になったら、また手伝いに行く予定である。
(そしたらまた更新が遅れます、すんまへ〜ん・・・)