落花生

 11月、12月と実家に帰ってきた。
帰りついたら母が、「ビールのつまみに落花生を作っておいたから。」と言う。
「ありがとう、とりに行くから。」というのが私の答えである。
作っておいたというのは栽培しておいたという意味であり、「から」の後は
「採りに行って来て、洗って自分でゆでなさい」と続いている。

 そう、忙しいからこそ、手助けに帰るのである。
おもてなしどころかお裾分け以前であると文句をたれる時代はとっくに過ぎている。
そんなこんなで夫と二人、さて畑に立つわけだが。実のところ、二人とも落花生の
地上部を見るのは初めてであった。

 多分コレだろうと目星をつけたのは、いかにも「豆」です、といった葉っぱだから。
おっかなびっくりで掘ってみると、葉の下から伸ばした茎の先にくっついて、
大小さまざまな実が現れた。茎から実をちぎってバケツに入れる。今日のところは
2日分だけとっておけばいい。自分たちが食べるぶんである。

 にしても、収穫出来る部分に対して地上部でかすぎ。
それとも千葉のような大産地では違うのだろうか。つまり、よそよりもボコボコと
実がついてくるとか?産地が産地である所以など考えてみると楽しい。

 帰宅して、落花生を洗う。洗った後に大鍋でゆでる。ゆでるのはいいのだが、
サイズがまちまちなのである。サイズがまちまちだと茹で上がり時間も
まちまちとなる。ちょっとはサイズ分けしなければならない。こんなちまちました
ものを落花生農家はサイズわけしてるのか?

 イチゴだとやわらかいのでサイズは手で選別しているはずである。
その点落花生は果皮が硬い。効率的にサイズ分けできるような道具というか、機械が
あるのだろうと推測する。推測するがどんなもんなのか、私は知らない。
サイズのほかに、虫くいも分けなければならない。やっぱ大変だ。

 そうそう、カーター大統領はピーナツ農場の農場主だったねえ、と夫が言う。
なるほど生真面目で華やかさに欠けると言われる彼の性格は落花生から来ているのか、
とテキトーなことを答える。それではスイカ農場主の性格はおおらかで派手なのか。

 とりたての新鮮な落花生は美味い。
いや、美味いと言うが私にはわからない。ゆでたのはとりたての落花生しか食べたこと
ない。何日くらい経った落花生なら古い落花生と呼ぶのか。そういいながらも
なんとなく、なんとなーく止まらなくなる。左手親指のツメがぼろぼろになる。

 帰宅する日、私達はまだ畑にいた。
電車に乗るのは午後なので、畑に残った落花生を収穫してしまいたくなったのである。
そう聞くとまるで私達がとっても親孝行みたいだが別にそういうわけではなく、
やり始めた仕事なので気になってしまうというだけで。

 目に見える仕事というのは癖になる、というかむきになってしまいがちなのかも
しれない。実家はそういう仕事の宝庫で、母なんぞは「やってくれるなら何でもいい。
済ませてくれたぶん、前に進むことが出来るから。」と言っている。達観?諦観?

 落花生はこのままでは放ったらかし確実となるし、掘っておきさえすれば、私たちが
食べなくとも何かの役に立つ。元々ビールのつまみに作ったというだけのことはあり、
そのビールを飲むのも私と夫の二人分なのでそんなに株数はない。
それでもバケツ3杯分の収穫を爽快感とともに得た。

 ところが、洗って置いておいてあるそれを見て、母が爽快感を吹き飛ばす。
「あんたたち、大きいのでなくちゃ、いや?小さいのでもいいんじゃない?」
これが何を意味するのかといえば、売ろうと思うから売り物になるのは置いていって
くれ、という意味だ。

 言わなくてもそうするつもりだった。元々落花生は小さめの方が早く茹で上がるし、
やわらかくて美味しい。だがそこでいかにも惜しそうな顔を作り、「はいはい、私達は
おとなしく規格外をいただいて行きますとも。」と答え、母は視線をはずして笑う。
ごまかそうったって、そのまんまだっつーの。達観でも諦観でもない、ただの欲!

 落花生は小分けにして地元の売店に出すことになる。
箱で売るのとは違って手間はかかるが、バケツ3杯しかなくとも品物になる。
落花生は大人気で、並べておきさえすれば売れるそうだ。畑まで行ってどうこうする
のは大変だが、洗ってあればあとの手間はたいしたことはないのだろう。
こういう欲を出してくれるなら、手伝いに帰るかいがある。(他に何と思えば?)

 「なんとなく要領わかったから、私も落花生を作ってみようかなー」と言ってみた。
「やればいいじゃない。裏の駐車場なんて、よく出来そうだ。」と母。
裏の駐車場はよそ様の土地だが。

 しかし、枝豆とかならまだしも、落花生であることがわかる人がどれだけ
いるだろうか・・・と思えば、ちょっとだけ心が動いたりしたのであった。