ひ〜び〜これ〜こう〜じつ〜♪
不動産取引では、建ててから10年以上経過した家は、なんら価値が無いものと
みなされる。どんな御殿が建っていようとも、取引は土地の値段だけでなされ、
その代わりに、御殿と思った家が実はどんなものであったとしても、
文句をたれる権利はないことになっているのである。
そんなわけなので、うちも一応は、土地を買ったつもりでいようとした。
しかし、家は見るからにボロながら現実に建っていて人が住んでいるんだし、
こりゃ大丈夫だろうと思い、オマケに家までついてきちゃって、ラッキー!
と思わなかったと言えば、全然全く嘘になる。
やって来た両親は、そりゃ喜んだ。田舎の家のような作りだったからである。
田舎の村落共同体で育ってきたうるさ型の父でさえ、納得して帰って行った。
柱は檜、(なんせ、新建材も新技術もろくになかった頃建てたわけで・・)
その本数も十分なものだそうで。
母ははしゃいで、わかりもしないくせに、「床の間には掛け軸の良いものを・・」
などと言い出す始末だ。言われてみれば床の間があるからには掛け軸くらい必要
なのかもしれない。しかし私はそういうことを忘れていて、その日も床の間に
飾られていたのは、庭の中で唯一切花になるアジサイのみ、だった。
金沢ではお茶事となれば、前田家ウン代目、だれそれの筆、というのがよく
使われていた。だからだろうか、掛け軸といわれれば、書の方を想像してしまう。
そして掛け軸は書の方が良いと決め付けるのはいいのだが、自分に座右の銘が
あるわけでもない。
大体、好きな言葉って何だっけと思い出して見れば「人間万事塞翁が馬」くらい、
(いかにも場当たりの性格が現れている?)夫はと言えば「三十六計逃げるにしかず」
とはいつも言うことだけど、せめて「戦わずして勝つ」にしてくれないかな〜とか、
ろくなことを考え付かない。
で、妹に好きな言葉はと聞けば、「棚からぼたもち。」と、見事ボケてくれた。
書家の娘である友達は、「日々是好日」を良く見かけるよと証言してくれたが、
ちょっと実感が湧かない。というか、掛け軸見るたびにジュディ・オングの声で
歌が聞こえてきそうで、どーもいまひとつ気分がのらない。てことはつまり、
ここまできたら、当分掛け軸とは縁がないということなのだ。
ところで、問題はこの家の売主が床の間をどう処遇していたのかということに
なって来るのではないか。だが、これがなんと「物置」であった。物がたくさん置いて
あって、だからこの家を見に来たときには、床の間があるとは気がつかなかった。
他の場所も、同じようなものだった。
「急いで家を売っても損をしない法」というのが新書にある。
家を買うにあたって色々資料をあさったが、一番面白かったのはこの本だった。
著者は家を高く売るには、とにかく家に幸せがついてくるよう見えるようにしろと
説いていた。離婚直前であっても仲良さそうに振舞え、とさえ書いてあった。
この家の売主にはそんな感覚はなかった。
そんなこと考える必要ないほど、本当にのんきに「幸せ」に暮していたのである。
問題があるとすれば、それは売買を請け負った不動産屋の方である。高く売るため
の、もっとわかりやすく幸せそうに「見せる」技術を伝授するべきだったのだ。
だが、彼らにそんな感覚はなく、私達は、ありのままでもオッケーという幸せを買った。
先日、ご近所の家が売りに出ていたので、見に行った。
「現況古家あり」という話であったが、うちよりずっと立派できれいな家だった。
売主はそれを取り壊して売ろうとしていたのである。なんか、うれしくなかった。
xxxxxxxxxx
優しい友人は喜びつつも、集合住宅生活が長い私達のことを心配して、
梅雨入り前に雨樋の枯葉チェックくらいはしておくようにと教えてくれた。
そう、問題はまさにその雨樋から発生したのであった。
この家は、先代の「几帳面だった」といわれるおじいちゃんによって、例えば
下水道が通ってない頃の浄化槽は撤去されているし、そのときに存在した雨樋から
やって来る水は全てそのまま集中下水に行くようになっている。
だというのに、玄関横の雨樋から、滝のように雨が漏れ落ちてくるのは、何故?
雨樋の角度が悪いのか、それとも落ち葉が詰まっているのか。脚立に上がってみた
夫は、とりあえず葉を取り除いた。それから、その先の雨を通す管をとってみた。
すると、おどろくまいことか、黒い土が、管の形にすぽっと抜けたのである。
「どうやら、雨仕舞いを全然してなかったようだな・・・。」
何の為の集中下水やら、そこまで届かないようにしてしまったなら、何の意味もない
と思うのだが。そして、その先の管の中に詰まったものを掘り出そうとした夫に
よれば、「植物の根がぎっしり詰まってた」とのことなのだが。
「植物の根?それはもしかして、その先の管が壊れているってことなんじゃない?
植物本体全てが光合成が出来ない管の中にあるわけがないもの。」・・・って、自分
が言ったことながらに恐ろしい。だってそれが現実なら、もっと大々的な改修が必要
になるという意味なのだから。そんなわけで現在は、一応土も根もとれるだけとって
次の大雨を待っているところである。
結局、先代のおじいちゃんは、そりゃ少しは「几帳面」すぎたのかもしれなかったが、
しかし、その息子は家というものに対して何も考えていなかったのではないか?
売主夫妻は現在、事情があって、いっときだけのマンション暮しをしている。
夫人に「マンションって、楽でしょう?」と聞いたら、何の飾りもなく、「本当にそう
です!」と心の底から答えてくれた。
そうだった。私達はこの家や土地を望んで得たのだが、彼らは必ずしもそうでは
なかったのである。私達がこの家を良くしようと努力するのも勝手なら、彼らが
のんきに暮すのも勝手なのであった。家や土地から得られるものがお互いに違った
だけなのである。
xxxxxxxxxxxx
先代のおじいちゃんが、大事にしていた松を切った恨み言を言うために枕元に
立つとしたら、そりゃこの家を売った息子の方に決まっている、と思っていた。
だって、売る方が悪い。売った相手がそのままの家や庭木を大事にしてくれると
思う方が図々しいのである。
だが最近は、どうせなら「夫の」枕元の方に立ってくれたらいいなと思っている。
家を大事にすること、自分の息子の比ではないおじいちゃんは、自分が建てた家が
大事にされ、色々ときれいになっていくのを見れば、うれしいのではないか。
それならいっそのこと、ちょっと枕元に立って、「実はあのへんもそろそろ直した
方が・・・」と教えてくれりゃいいのに、と思ってしまうのである。なのに
おじいちゃん、全然出て来やしない。そういう態度って、よくないと思うのだが。
「いっそこの家が、買ったときより高く売れるくらいがんばってみる?」
と私が言ったときの夫の返事は、「そういうつもりで維持管理していくのでなければ、
自分の家にする意味がない。」というものであった。(もしかしておじいちゃん、
その一言で勝手に成仏しちゃったのかも・・・)
元々、売る気などはさらさらない。自分達が住まなければ価値はない家であり、
今となっては与えられたこの空間が面白くなってきたところである。おじいちゃんが
そのへんにいるならアドバイスはあきらめるとしても、作業するときの脚立の
脚くらいは支えていてもらいたいもんだが・・・そういうのって、駄目だろうか?