あははは、戻ってきた
「いいかげんに更新しろや」。
そう言われてなお、ほぼ半年が経過した。
言い訳をするなれば、「すんません、まーなんせ忙しくて。」ということに
なるのだろうか。
忙しい、というのは失礼な言いぐさかもしれない。
が、その間には私のお腹には、盲腸のではない傷跡が出来た。情痴の果ての刃傷沙汰、
とかいうのではなく(^^;)入院、手術をしたのである。その関係でマジメに
水泳もしていた。退院してからは春のハンギング・バスケットの展示会に二つ
作品を出した。その後、初めて華道展にも参加した。
どーだ、忙しかろうが。(^^;)
手術と言っても緊急を要するものではなく、「懸案」程度のものだった。
しかし、症状を思えば早いにこしたことはなく、そしたら日程はこれまた懸案の
H.B.の展示会の搬入から50日前になった。入院期間は13日間。この日程なら
退院後はすぐさま忙しくなるので、つべこべ考えることなく順調に復帰出来ると
考えた。
それ以前には精を出して泳ぎ、切ったのは3月7日だった。お腹を開けてみたら
少しばかり余計なものが見つかり、時間と出血は多めに必要としたものの、見つけた
からには処置してもらえた。傷を作っただけのことはあった。(うふふ、見る?)
我ながらうまくいったもんだなーと今でも感心している。が、ちょっとした間違い
くらいはあった。私は、退院とは翌日から日常生活を送って良いものだと思いこんで
いた。本来退院というのは、病院で出来ることは終わったから後はお家でなんとかして
ね、という意味らしい。だが、それに気が付いたのはかなり後になってからの
ことであった。
よくしたもので?このカン違いを元に、私は努力した。
例えばお腹を切った場合、なるべく早く動くことを求められる。腸閉塞の危険を
さけるためである。手術翌朝、部屋に帰るときには早くも「歩けます?」と聞かれる。
出血が多かった私は、立ち上がれなかった。しかしその時は自分が貧血状態などとは
知らない。歩けなければいけないものだと思いこんだのである。それで私はその日の
夕方には導尿のバッグをぶら下げたまんま、せめてもとベッドの横でその場足踏みを
することとなった。
歩けの動けのと、具体的に数字にしてみればどれくらいだったのか、未だによく
わからない。というかあれは本来「なるべく」という言葉が前についていたのであろう。
だが、そんなん誰も私に教えてくれなかった。それで私は導尿のバッグが外れると
病院の中を歩き回ったり階段の上り下りをしていた。今思うと、エライ、よりは
バカ、の方に近い。しかし、しょせんこんなのは勝てば官軍、結果オーライなのだ。
医者や看護士の「すごい」の合唱のなか、めでたく予定通り退院した。
当然のことながら、退院後は、すぐさま出展のための苗探しを始めた。
私は車を運転しない。だから探し「歩いた」。「当分無理はしないように」と医師は言った
が、無理とはどの程度のものか。激しい運動は良くないったって、元々激しい運動
なんてしたことない私が、退院したからと言って急にそんなことを始めるわけもない。
大丈夫なところをみると、苗探しに歩き回るくらいでは激しい運動にはあたらない
ようだった。ガーデンセンターは大概郊外にある。時は春で桜が咲き始め新緑も
美しかった。あの眺めを忘れるつもりはない。たいした病気ではないにせよ、私が
生還したことに違いはなかった。歩くほどにそれははっきりとしてきた。
よい季節だったがよく雨が降った。
雨の中長時間歩くと、傘をさしていても濡れてしまう。だが、歩き続けていれば
カゼをひくこともない。そのうち素材集めだけで頭が一杯になった。
いったん苗探しに出ればその日が1万歩以下、ということはなかった。(面白半分
で計ってみたのである)ここまでやれるようになったのだから、出品した作品が
二つとも受賞出来たのは「結果を出せた」というよりは、「おまけ」がついたと思う
べきなのではないか?
ただ、賞には余計なおまけがもう一つついてきた。
授賞式が並じゃなく派手だったのである。そのうえインタビューまであった。
私は晴れがましいことも人前に立つことも大嫌いである。そのくせ主役とくる。
取り乱してしまい大恥をかいた。悪友に揶揄されまくった私は、「私を泣かせたいなら
表彰台に立たせなさい!」と開き直るに至った。(が、通じる人は少ない。ううっ)
水泳に通い始めたのは、正月過ぎからだった。
血糖値や肩こりをなんとかするためである。水泳と言ってもたかだか運動音痴による
「マイ・平泳ぎ」だった。しかし、血糖値がかかっている!のである。やがて
いいかげんなクロールくらいなら抜き去れるようになり、手術を控えているのを
言い訳に、遊びで泳いでいる子供なんぞは後ろからあおるようになった。
手術後、担当の医師は私に向かって、「新しい筋肉が出来ていましたね〜」
と言ったものである。それはなかなか見たかったが、全身麻酔の中にいて見られる
わけもない。生まれて初めて、医者をうらやましく感じた。医者だって、自分の筋肉を
観察出来るわけではないはずなのだが。
ところで、水中ウォーキングや水泳の話となると、自分の水着姿がイヤなので
プールに行けないと言う人がかなりの確率でいる。だからこそ、水着姿が
えらいこっちゃになっているのだが、そう思えば悪循環に陥ることになる。
私の周囲には膝に手術の痕を見せつつ、「やっと歩けるようになったんだから
がんばらなくちゃ!」と言って泳いでいる人もいる。様々な事情の下に人はプールに
集っているのである。事情があるデブになる前に、ただのデブであるうちに、人は
プールに入るべきなのだ。(そうすれば私のデブさも目立たない。うふふふふ。)
忙しかった話はまだ続く。H.B.が終わると今度は華道展の準備だった。
お花を始めたのは3年前で、気楽な「カルチャー」を選んだつもりだった。しかし何故か
並じゃなく熱心な先生に当たってしまった。私は先生の、「自作花器を作って、
展示会をやりましょう!」という野望の巻き添えをくらったのである。先生がそう
言い出したのは去年のことで、当然のことながら私はまだ2年目だった。
今でも下手だが、当時の私はもっと下手だった。だというのに、自作花器?
しかし、才能があるつもりで始めたわけではなし、イヤになる権利はなかった。
大体、「4冊のテキストが終わる頃にはどんな人でもうまく活けられるようになる。」
というのが先生の言いぐさだったので、おおそうかい、そんじゃ4冊目までは、
言われたことくらいはつべこべ言わずやってやろうじゃないの、と決心していたのだ。
だからって、花器まで作ることになるとは思わなかったが、決めたことは仕方なく、
私はせっせと花器を作っては余計な恥をかき続けることとなった。そのうち手術を
することとなったが入院はたったの13日間であり、お花を活けることが
「過激な運動」であるわけもないので、1回お稽古を休むだけでまた復帰。パンツの
下の傷など見えるわけもないから、久しぶりのお稽古日には先生を筆頭にお稽古場の
誰もが私の手術のことなど忘れていた。(あの時は、丈夫な自分が憎かった)
展示会が7月になって、春のH.B.の展示会と重ならなかったのはラッキーだったが、
おかげで両方ともクリアする羽目になった。H.B.の花材集めが終わったら
今度は、華道展の花材の選定、と来る。しかし私には7月に花屋にある花なんて
想像もつかなかった。庭で植物を育てはしても、切り花にして飾ることには無関心
だった。自分の庭のでさえそうなのだから、まして花屋なんて盆、正月くらいしか
入ったことがないのである。(女じゃないみたいですね、私。)
確実を期してお稽古で使った花を活ける人もいたが、私は自分が気に入った植物を、
出来れば珍しいものを活けたかった。幸い先生は変わったものに対してほめこそすれ、
つべこべ言うたぐいの人ではなかった。
なんとか入院前には、花器も出来た。(なんとかなるもんですなあ、はははは。)
ガラスの瓶に真っ黒いドライのハスの実や赤唐辛子をあしらったもので、これだけで
「何か」になっているぶん、上に乗っけるものは限られるはずだった。
庭を巡って、コロキアとヒューケラに決めたのが5月下旬。
練習のときにはこれに濃い紫色のラベンダーを合わせたが、本番にはラベンダーは
終わっている。代わりに茶色のヒマワリと決めたのが6月。これは活けるための技術
は要らず、組み合わせの方が芸だった。
これだけなら楽だったが、予備のつもりで用意した庭のテッポウユリを先生が
いたく気に入ってしまわれ、何故か2作出展することとなってしまった。しかし、
庭の花を展示会に使うのは、未経験者にとっては大変なことでもあった。。例えば
毎朝花が開くが早いか、おしべの花粉を取り去りに行った。そうしないと小さな虫が
集まってしまうし、こぼれた花粉で花弁がシミついてしまうのである。
テッポウユリの花は、見れば見るほど純白よりも白く、それが恐ろしくもあり魅力
でもあったから、間違っても花弁にシワや痕などつけてはいけない。そのつもりで
つぼみではなく開いた花を練習にも本番にも10本づつも慎重に持ち歩くことに
なった。(これで身体の具合がどうこうなんて、誰が思い出すだろうか? ^^;)
本番の展示会で私の作品は、とりあえず「庭で育てた」とか、「珍しい」とかいうことで
人々の会話のネタとなった。その後は自作花器の方が不可思議な作品だということで、
「魔女系」と分類された。予備作品はと言えば、とにかく鉄砲百合がほめられた。
作品全体としては「葬式系」だったかもしれない。なんせ薄い緑色の地に飛沫のように
紫が入ったトルコキキョウ、それに器が黒に近い灰色だったし。(^^;)
いっそ次回は、コワイのや変わったのではなくて、見る人の頭が痛くなるほど
派手なのを活けてやろうじゃんと考えついたのが、展示会が終わって一息ついた
7月中旬あたりのことだった。
そんなこんなで現在に至る。
たま〜にはWEBのことも思い出したが、大体のところは作品を作ったり考えたり
するだけで精一杯だった。いやほんとに、才能がないというのは苦しいものである。
書いて笑わせろというなら、私に才能をよこすがいい。はははははははは???
自作花器の方も続いている。草月80周年に合わせ、先生は来年も展示会をやる
つもりなのである。何を考えたか、「園芸の分をせめて半分お華の方に・・」などと
言いだしてもいる。半分とは恐れ入ったものである。園芸があるから作品が出来たの
だが。逆はあるのだろうか、一体。そしてその、H.B.は園芸に含むこととしても
WEBの分は一体?
忙しい私をよそ目に、配置転換となって少し時間が出来た夫はブログを始めた。
きったねえ、とは言わないのだろーなあ、やっぱり。
8月初旬