大分の頃

フグの思い出なんか書いたら、ずるずると大分のことを思い出した。
例えば、馴染みの魚屋。シャコもタコも生きて動いていた。海へ帰ろうとするタコを
魚屋のおにいさんがひょいと連れ戻してた。いずれ絶望のうちにタコは死んで
いったが、喜びのうちに料理され・・・なんのことだか、である。

タコといえば、友達のダンナ様は同じ大分でも海の方の人で、二人でそちらへ行っ
たら「美味しいから」と言って生きてるタコをくれたのだそうだ。有難くいただいて
電車に乗ったまではよかったんだけど、その電車の中でタコが逃げ出した。だが、
あえなく連れ戻されたタコの吸盤の間には小石がつまっていて、それを取り除く
のが一苦労だったそうである。

こんな話をしてくれる人と出会えたのも収穫だったが、何よりも楽しかったのは
大分の自然だった。この頃は車を持たなかったから、よく歩いた。西大分駅から海
までほんの3分。その海を見ながら坂を登って行く。またはもう少し川沿いに上り、
小学校から坂を登っていく。いずれの坂も非常に急な坂で、中には地元の
悪ガキが「婆殺しの坂」と名づけたものもあった。

坂の一つ一つに付属する、様々なものを思い出す。
NHKの中継所、その横の家の石垣に咲いていたゴールド・レース。何故こんなところに
と不思議だった。坂には、自分に気がつかない通行人に吠え掛かって暇つぶしをして
いるクソ犬も、いた。転げ落ちそうな坂をひーはー言いながら登っていけば、視線は
いやでも下に落とされる。その頭の上から吠え掛かるのである。こともあろうに、
それはでっかい秋田犬だった。

他の坂では、周囲は野バラだらけだった。元々は農地だったのだろう。
そのあとを野バラがのさばり、それはそれできれいだったが、それにたくさん
アブラムシがついた。道端が木イチゴだらけの坂もあった。とっては食べながら
歩いた。友人が、そこはマムシだらけで有名な道であると後で教えてくれた。だから
あんなに実が残っていたのかもしれない。かまれなかった分、お得であった。

急坂なので、1歩1歩ごとに背中の風景が変わっていく。
振り返ると大分湾、その向こうに新日鉄の工場。坂を登りきると、反対側に今度は
別府湾。その沖にはいつも1隻フェリーが停泊していた。関西に行くフェリーで、
目の前の港から四国に渡ることも関西に行くことも出来たが、結局行かずじまい
だった。

坂を登りきると、尾根伝いを歩くようなかんじになって、海が見え隠れする道と
なった。廃屋の庭にフリージアが咲いていた。大分ともなると、フリージアは
植えっぱなしでいいのだった。畑の隅っこに、何種類ものジャーマン・アイリスを
植えているところもあった。ミモザの木を何本も植えているところがあって、
きれいだと思ってみていたら、ある日枝が殆どなくなっていた。
切り花栽培をしてたわけだ。

途中から左に下ると延々とみかん畑が続く。その道は、みかんが実ってからは、
なんら関係なかった。それより、みかんの花の頃がよかった。あの香りの為に歩いた
ものだ。まっすぐ行くと、大きな神社があった。お正月はこの神社への初詣客で、
普段歩く人さえいない道が何km も渋滞した。

冬、ここでの楽しみは南天だった。薄暗い参道の左右には南天が点在していて、
それぞれが小さな冷たい光を放つ赤い実をつけて重そうにしなっていた。
いずれ私も南天を植えることになる、と思う。

神社近くまで来ると、もう海は見えない。そこで引き返さず、もっと奥に行くと、
またみかん山や民家。バスは神社までしか通わないが、もちろんバス路線なぞは
なるべく避けて歩いている。

大分は雨が少ないからか、あちこちにため池があった。いつ頃使われていたもの
か、しかし今は忘れ去られた池を見つけるのも楽しみだった。同じ道をまた奥に
行くと、大きな放生池もあった。その先はなだらかな丘陵地帯になっていて、
蒔きさえすれば、何でもむくむくと育ちそうな畑となっていた。それだから、好きに
なった。ここは別のバス路線の終点でもあった。

そこから新興住宅地に抜ける道を使えば、3時間だったか4時間だったかで帰宅
できた。人に言うと驚かれたが、どこに行こうとも私は同じように歩きまわって
遊ぶと思う。

地図にない道を見つけると、その先はどこに通じているのか、確かめたかった。
たいてい一人で歩いていた。今もそれは変わらない。足は車となり、おかげで車は
傷だらけとなったが。(ちなみに車の名は「ローラ」。傷だらけだから ^^;)

しかし、雪が溶けた林道などは、大きな石が転がってるし、竹が折れて道に突き
出ているしで。先日、「車というのは思ったより弱いものだね。」と言ったら、
夫と知人が二人して「普通はそんなところに行かないのっ!」と教えてくれた。
それじゃ一体何の為に足や車が??実に変な人達であった。