ビストロ版:碧羅
それは1年以上前のことだった。新しいビストロらしいのを見つけ、入って
食事した。お勘定。支払って、はい、サヨナラ。とスムーズに行けばよかったの
だが、店の主人と話しはじめてしまった。
長い立ち話によれば、彼は富山の人で、東京で修行して、海外も一応、見て来た
らしかった。今どきなら外国で修行した人だってそのへんにありふれていそうな
ものだが、現実には少ない。
何故店を富山に出さないかと言えば、金沢の方が店がやりやすそうだったから、
だそうで。話してみれば、彼の言うところの「やりやすさ」というのは、原価削って
羊頭狗肉でお客だまくらかしてたんまり儲けられそう、と言うのではなく、出したい
ものを出してもやって行けるかもしれない、という意味だった。もちろん。
店をやる、というのもそうだが、彼には、出したい料理、食べてもらいたい料理が
あった。だからこそ、煮詰まっていた。彼の全てが、真面目に正しかったが、しかし、
何やらすっぽ抜けていたのである。あの日のことで思い出すのは、フランス語の
ラベルをつけた3種類の塩である。
世の中を買いかぶりすぎている。もちろんこれは世間をナメていいという
わけではなく、世間はもっと低レベルにまとまっていて、その低レベルを勘定に
入れなければならないという意味である。塩を3種類の中から選択させるのが既に
して間違いだが、おまけにフランス語のラベルときては・・。
私はその日から、店の前を通りかかりるたびに、こわごわ中を伺うこととなった。
現実に自分が入って食べ、彼と話す余裕はなかった。実際、フランス料理食べに
行って、「親の面倒」なんていう言葉を聞かされるハメに陥れば、誰しも二の足を
踏む。客にそんな言葉を聞かせるくらいなら、ハンバーグとカレーの店にしてしまえ
ばいい。
いや、是非そうして欲しかった。そうすれば、2度と寄らずにすむから。
しかしそれでも、彼の様子からしてみれば、店が続いている間は、お客と料理の
距離を測りながら、なんとか工夫のあるものを出し続けているだろうという確信は
あった。彼のあの真面目さと情熱を頼りに、時期を見てまた食べに行こう。
そう思って、私は、待っていた。
それから1年。1年どころか、1年以上だ。あの日、私はセーターを着ていたから。
1年も間を置けば、普通は何もかも忘れてるはずだと私は思っていた。しかし、
そうっと店に入ったとたん、「あっ、こんにちわ!お久しぶりですね!」という声が
とんできたのである。何故、何故に1年も経ってるのに、ちょっとしゃべっただけの
相手の顔を覚えていられる?
私なんて下手するとさっき話した人の顔だって覚えてないぞ。だというのにこの
人は。マジメなのもいいかげんにしとけ。ほとぼり全然さめてないじゃないの。
最初の出会いが悪すぎたか。くそう。髪を切るとか、変装してくるんだった。
そう思いながら、食べた。あのときは何を食べたか??今回は「おまかせ」とやらで、
8種類の前菜なんかついていて。
食事の終わり頃、彼は来なくてもいいのに厨房から出てきた。「いかがでしたか?」
って、そう言われればそりゃあまあ、豆のサラダが懐かしいことの、カニとグレープ
フルーツのサラダに入っていたクリームが良いことのとお話することにもなる。
そう言えば、前もこんな話から長話になっちゃったんだわ。
にしても。豆のサラダは彼もときに「食べたくなって作る」と言うのだった。
なるほど、料理が好きで作っている。嫌いで作れるかと言われるかもしれないが、
好きでなくても仕事だからやっているということは、いくらでもあるのだ。
この人、手にしみついている。
話は勝手に回想に入る。「あなたがいらしたのは1年以上も前のことでしたね。」
「ええ。あの頃は私、金沢と東京は同じようなものだと思っていました。」本当は、
東京が金沢と一緒なんですけれどね。どこだって一緒なのです。新しい味覚に驚き
たい人なんて、本当の少数派です。
「あなたは、金沢の人ではありませんでしたね。」
そうです、金沢に来てから、同じことをあちこちで言われました。そう言う自分
だって「越中:富山」のくせに、何故そう思うのかと聞いたら、あなたの答えときたら
「春なのに、セーターを着ている。」というものでした。
あれは同じ春でも、セーターを着なければならないほど寒かった頃の話です。
だから、1年「以上」前。実際、あなたに自覚はないかもしれませんが、あなた自身が
同じだけの時間を、春でも寒ければセーターを着てもいい、と金沢の人たちに
語り続けてきたわけなのですよ。
今日だって、リゾットにカリフラワーのピクルスを添えている。
私は、あれから「ゴハンとお漬物」を連想しましたが、あなたときたら「日本人は、生で
カリフラワーを食べないでしょう?ですから食べさせてみたかったんですよ。」と。
「最近になって、やっとこの店も軌道に乗ってきました。
・・・あの頃は、辛かったです。」
わざわざ言わなくとも、とっくに知っています。それが言えるようになって、本当
に良かった。待ったかいがありました。ここまで来たら、ちゃんとしたもの食べさせ
なかったら、承知しません。
・・えっ、内臓料理?それはいくらなんでもまだいけません。
そこまでちゃんとしたもの出したら、他の客だって驚きますでしょう。
鴨もいいですねってあなた、あれは冬、でしょう?え、今から冬の話をしてる?
今は初夏でしょうが。すると一体、ビストロのくせに冬のあいだ何を出してた
のです?
店は、まだ予断を許さないのではないかと思った。
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ちなみに、パリのビストロ行くと、大概の場合、メインは鴨か仔羊か牛かの
どれかから選べ、だったりするのである。そしてここは金沢で、鴨を使った料理、
治部煮は名物なのであった。だから、イノシシはともかく、鴨なら出しても大丈夫
ではないかと思うのだが、煮たのではなくて焼いた鴨なんて気持ち悪いと言われる
かもしれないし、私は春にセーター着て平気な人なので、本当はよくわかんない。