民法改正の行方(または今)にまつわる私の不安
編集部 土屋聡
自由になるために、私はこういう活動をしています。差別をなくすため、自由であるはずの自分・仲間を、束縛しているものと、闘うためなんです。実際には、具体的な日常生活でのトラブルをいかに越すかというノウハウ相談が多かったりします。それでいいとは思うんです。だって、きれい事の一般論を語ったり、イメージしきれないそら言を、誰かさんの言葉を孫引きにして話したところで、何も変わりませんし、日常生活の中にこそ、社会の問題は凝縮して存在していると思っていますから。とかく政治問題に熱心ないわゆる民主的な人も、暮らしの中(家庭の中)では差別者だったりします。また、自分と違う意見をシャットアウトしていまう人の、何と多いことか。だから、自由を奪還するステージは、国会やら、法律やら、選挙やらよりも、私の場合はまず、ごちゃごちゃした矛盾だらけの暮らしの中にあるんです。だから、「まあいい」とは、思うのです。
けれども、このところ、私は何のために、どんな活動をしている?と、自問することが、度々あるんです。差別をかわすため? 差別されないように? 差別を少なくするってこと? ノウハウ? テクニック? 私たちは、何を目指しているの?
第三の姓があってもいいんじゃない?という話に、「ひとまずは」なんて、妥協している自分。選択的夫婦別姓の民法改正がなされたら、事実婚はどうなるの?と言われたとき、何も言えない自分。物知り顔で「一歩前進」なんて言いながら、きっとこれからも事実婚を続けていく自分にとって、民法改正って、どういうことなんだろう?
「制服をなくそう」って話が、いつの間にかに「ましな・すてきな制服選び」になっている...そんな感じが、するんですよ。かつては、戸籍をどうするか(同戸籍・別戸籍・個人登録など...)も含めたダイナミックな論議がありました。それは、活動している市民レベルではなく、議員、法律家や法制審議会も含めてのことでした。なのに、なんだか「とにかく民法改正!」って走るこの頃は、私にはちっとも、自由への道と感じられないんです。
いろんな方が、別姓を考える会に関わっています。いろんな方に、支えられています。そして、別姓を考える会の活動が、少なくない方々を支えたり、助けたりしてきたという事実はあると思います。けれども、なんだか「便利な別姓を考える会」って感じが、私にはちょいと辛い。そんなこの頃です。「別姓通信」編集部をそろそろ交代します。募集中です。