久しぶりにリマの空港に降り立ったのだった。知り合いの教授が手配をしてくれた宿は、瀟洒な住宅街の一角にあった。玄関をあけると、すぐ左手に小さな受付があり、右手が応接間になっていた。受付には色の白いストイックな感じの老婦人がすわっており、われわれが入ると、口元を少しだけほころばせた。

 案内された部屋は二階にあった。天井が高く、板張りの床に靴音がやけに響いた。ベッドとクローゼット、それに小さなテーブルと椅子、じつにさっぱりとした部屋だった。病院のような清潔感があった。窓を開けると、道路のむこうに公園が広がっていた。

 やがて小柄なインディオが、引きずるようにしてぼくのスーツケースを運んできた。浅黒い顔の下で、ボーイの制服がいっそう白く見えた。チップを渡すと、怯えたような目のまま、「グラシアス、セニョール」といった。

 ぼくは幼なじみのカルロスに電話して、夕飯にさそった。しばらくすると、小さな青い車に乗ってやってきた。ずんぐりと太っていたのにはおどろいた。信号を無視しながら、海岸に向かって走った。アンティクーチョを食べたいとぼくが言ったので、ミラフロレスの店につれていってくれた。アンティクーチョというのは、牛の心臓を小さく切って、焼き鳥みたいに串刺しにしたものだ。そのうちにカルロスは、いま高利貸しをやっているんだといった。ミシンやらアイロンやら宝石をかたに金を貸すんだ。利子を体で払う女もいるからけっこう楽しいさ、と皿に視線を落としたままくっくっと笑った。勘定はぼくがドル紙幣で払った。

 ホテルにもどると、玄関の鍵を自分で開け、二階にあがってそのままベッドに潜りこんだ。開け放った窓から、ときおり少年たちの歓声が聞こえてきた。公園でバスケットボールをして遊んでいるようだった。コンクリートの地面にはじくボールの音を聞きながら、いつの間にか寝入ってしまった。

 夜中に不意に目がさめた。吐き気がし、胃がよじれるような痛みがはしった。遠くでまだ少年たちの声がしていた。時計を見ると3時であった。初日からとんだ災難じゃないかと思った。顔が汗ばんできて、吐き気もひどくなった。這うようにしてバスルームにいって口の中に指をつっこんだ。すっかり吐いてしまうと楽になったが、まだ突き刺すような痛みが断続的におそってくる。帰りに窓辺に立つと、木立のあいだから小さなコートが見えた。霧が舞うような白い光のなかでふたりの若者がボールを奪い合っていた。ときおりもれてくるかけ声を聞きながら、ぼくはまた寝入った。

 夢を見た。川の土手をぼくがぐったりした男を背負って歩いている。ときおり野犬が牙をむきだして全速力で足もとをかすめていく。ぼくはなんとか橋にたどり着いて、川むこうに見える町に帰りたいと思っている。だが振り向いた拍子に、野犬の一匹と目があってしまった。やつは唸りながらこちらをめがけて突進してくる。背後からの攻撃をいったいどうやって防ぐんだ、と思いながらぼくは板切れを振りああげて身構える。そのとき目がさめた。すでに夜が明けていた。胃の痛みは消えていた。

 階下に降りると、背筋をぴんとのばした小柄なインディオはあいかわらず緊張した面持ちで、朝食をはこんでくれた。カップの底にコーヒーのエッセンスが一センチほど注がれている。そして小ぶりな双子のポットに、お湯とミルクが入っていた。巻き貝のような形をしたパンはやはりかたかった。

 受付の老婦人は、混血のメイドに植木鉢を指さしてなにやら指示を与えていた。ぼくは近くに文房具屋があるのかと尋ねた。婦人は口もとをすこしだけほころばせて、通りの名前をいった。外に出ると、蔦の葉が静かに揺れていた。そして道路の向こうの小さなコートは、静まり返ったままだった。
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思い出のホテル