短くしゃれた題名だが、物語のテンションが高く、だいぶシリアスな作品である。ここでいうラインというのは、ケーブルのことで、テレビとか電話のコードを流れる電気信号を受信できる女の子がいるという設定だ。つまりコードの近くにいれば、頭の中で映像が見えたり、音を聞きとることができるわけだ。それで冒頭に、妻が内緒でする電話の内容を知りたくてうずうずしている男が出てくるので、ついそのからみでくだんの娘が活躍をすることになるのではと見当をつけたが、そんな展開の話ではなかった。

 ラインの女がじっさいに登場するのはふたつの断章だけで、ほかでは主人公がつぎつぎとリレー式に交代する。それらのエピソードのなかには、独立した短編として読めるものもあり、密度はかなり高い。そしてそれらの断章(全部で二十)が並ぶと、そこにある共通の信号が流れていることに気づく。

 ケーブルの中身を感知できる女の子は二十歳ぐらいだが(名前はユウコ)、映像が見えたり、音が聞こえたりするとはいっても、彼女にとってその「能力」はむしろ苦痛であるらしい。周囲にはさまざまなコードがあるわけで、そこを走る信号がごちゃごちゃと重なり合って頭に飛び込んでくれば、たまったものではないだろう(水の映像やワグナーの音楽だけはだいじょうぶらしい)。ユウコは小説の終わりの方で、街を散歩しながら、家々の窓からもれ出る信号が「ひどく汚い」というが、こちらとしては苦笑するほかない。

 じつは彼女は病院に通っており、下されている診断は、「淫乱症」だ。「わけのわからない性的な飢餓感」におそわれるからだろう。そういうときは適当な男を部屋に誘うか、オナニーにふけるほかない。しかしほんとうのところは、その飢餓感は「誰かに何かをしてほしい」という飢餓感で、てっとりばやいからセックスに置き換えているだけだ。作者のコメントによれば、「セックスはわかりやすい。自分が必要とされていることが、また必要としていることがはっきりしていてあっという間に人間の関係ができてしまう」。とはいえこの飢餓感は発作のようなもので、電車のなかでオナニーをはじめて、大騒ぎになってしまったこともあるとか。

 ところで『ライン』には、この女性のように、せっぱ詰まったものを心のなかに抱えこんだ男女が何人も登場する。抱えこんだだけでなく、ふいに暴力としてそれを爆発させたりする。たとえば、スタンガンで風俗嬢を襲い、その顔を石でめちゃくちゃに潰す会社員や、眼球のつぶれる感触がたまらなくて、拳で相手の目をなぐりたがる男や、拾ってきた若い女の髪をつかんで水の中に顔を何十回となく浸ける中年女などだ。彼らの頭のなかで何かがはじけ、凶暴な力が噴出する。それを描き出すときの村上龍の文章はなかなかすさまじい。おかげでスタンガンの男が石をふりおろすとき、おもわずこちらものけぞってしまう――「適当な大きさの石を拾い、女のからだに馬乗りになってまず口を叩きつけた。……。石が歯に強く当たって火花が出た」

 彼らをそうした狂気に導くものは何なのか。その根源的な因子をさぐり当てるのは、おそらく容易なことではあるまい。作者は登場人物の幼少時のエピソードをそれぞれの断章におりこむのを忘れない。そこではたいがい暴力的で殺伐とした家庭環境が浮かび上がる。暴君的な父親やヒステリックで過保護な母親がくりかえし登場する。――「母親はますます高山をかばい甘やかし溺愛した」「父親も母親も明美を殴った」「母親がフミの背中に熱湯を垂らし、男は酒に酔うと必ず幸司を殴る」「ヨシキの母親もよく殴られたり蹴られたりした」「笑うときに上脣が痛み小さい頃に父親に殴られたことを思い出した」

 小説の半ばをすぎたあたりで、作者にはどうやらこの小説の射程がはっきりと見えてきたようだ。日本の現代社会への危機意識に促されて、物語が外にむかって一気に広がり、家庭、学校、社会をつぎつぎと同心円のなかに取りこんでいくのである。登校拒否の若者たちが登場する断章では、ボクサー志願の青年はかつて通った受験校のことを、「規則と罰と暴力の収容所だった」とのべる。そのことばでわれわれはそれらの円の同質性にあらためて気づかされる。円のどの地点でも人びとは深手を負い、のっぴきならない事態に追い込まれる。高校生なら「はずれない仮面を顔にはめられた」と言い出すし、学校に行くのがいやで「気が狂ったふり」をしているうちに、ほんとうにおかしくなってしまうのだ。大学に進んでも、あるいは会社に入っても「まだ病気になれない」のはよほど「鈍いやつら」だけだ、という叫びにも切実さがある。

 単行本化にあたりこの作品を締めくくる最後の四つの断章は、あらたに書き下ろされたという。そこに家庭を捨てた父親や、学校を退学した女子高生、会社をやめた男が出てくるのは当然のなりゆきだといえるかもしれない。彼らはそれぞれの領域において心か頭のどこかが壊れ、脱出か逃亡をはかった人びとだ。父親は首に犬の鎖をつけてもらって「顔のきつい女」の犬小屋に飼われている。女子高生はドラッグをやり、眠れないまま夜明けの街でしきりに見知らぬ人びとに電話をかけまくる。そして会社をやめた男は双眼鏡で窓の外を見張って敵の襲撃にそなえている……。壊れたままの彼らは、果敢に戦いをくりひろげているようにもみえる。勝ち目があるかどうか……。目標が消え、喪失感を抱いた現代人の「寂しさ」をしきりに指摘する村上龍だが、これらの人びとはあんがいその寂しさを乗り越えようともがいているのかもしれない(それは痛ましいことでもあるし、われわれが置かれている状況でもある)。だが首に犬の鎖をつけてもらっている中年男は、「……でもこの今のおれが、おれなんだ、他の六十憶の人間なんかどうでもいい、あの女とこうして暮らすのは、寂しくないんだよ」と例のラインの信号を感知する女の子に告白する。わるくないセリフだ。ちなみに双眼鏡の男の窓の下を通ったあと彼女はこうもいうのだ――「あの双眼鏡で外を見ていた男の部屋は、汚くなかった」
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村上龍 『ライン