ガルシア=マルケス●GARCIA MARQUEZ

『わが悲しき娼婦たちの思い出』

 これは二〇〇四年にガルシア・マルケスが十年ぶりで刊行した百二十ページほどの小ぶりな小説である。八十歳にさしかかりつつあるマルケスの待望の新刊とあって、スペイン語圏だけでもまたたく間に百万部売れた。川端康成の『眠れる美女』に想を得て書かれ、巻頭にその一文が掲げられている。――「たちの悪いいたづらはなさらないで下さいませよ、眠ってゐる女の子の口に指を入れようとなさつたりすることもいけませんよ、と宿の女は江口老人に念を押した」。マルケスの新刊では、美女に添い寝するのは満九十歳の「醜男【ぶおとこ】)で、内気な上に時代遅れのところがある」老ジャーナリストである。相方は「糖蜜色の肌」をした十四歳のうら若い乙女。

 もっとも川端の江口老人とちがって、この老ジャーナリストは、娼家のベッドの上でしなやかな裸身をさらす少女にあえなく恋してしまう。むかしは夜ごとに娼婦たちとにぎやかに戯れ、百戦錬磨の兵【つわもの】だったはずの男が、「思春期の少年のように」夢中になってしまうのである。そして嫉妬にかられると、手当たりしだい部屋にあるものを壁に投げつける。駆けつけてきた女将に「もう少し大人らしく」ふるまったらどうなの、とたしなめられる始末である。ひたすら眠り続ける乙女と、初めて愛に目ざめた老ジャーナリストの関係が意味するところは、微妙ななぞとあいまいさに満ちている。それを解くことが読者に与えられた楽しみのひとつであろう。現に訳者は巻末に「解説」を試みているし、当方にもひとつやふたつの解釈ができそうな気もする。

 とはいえ、クラシック音楽と古典文学を愛する、この一癖も二癖もある九十歳の老ジャーナリストの物語のいちばんの悦楽は、やはりガルシア・マルケスの独特の語り口に酔いしれることだろう。ユーモアと哀しみ、官能と哲学、風格と猥雑さが入り交じるよく彫琢されたリズミカルな文章で、今の老いの日々や過去の多彩な女性たちのことが語られていく。原文で読むとその切れ味のすごさに感嘆するほかない。むろんそれを同等の日本語に置き換えるのは至難のわざである。
「日本経済新聞社」2006.10.29


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