■某月某日 広島に1週間ほど滞在して、夕方、横浜へ帰ってきた。広島では、家人の実家近くに地ダコのうまいピザ店があり、何度かかよった。帰りの新幹線で、レイローサの『セバスティアンの夢』を訳しながら、ときおり、『悪魔の涎・追い求める男』(岩波文庫)などの短編集で知られるアルゼンチンのフリオ・コルタサルの書簡集『赤毛の女への手紙』のページを繰った。

 赤毛の女というのは、この本を編んだエヴェリン・ピコンのことだが、写真でみると、長身のコルタサルと対称的に小柄な女性で、20代のころの愛らしさがしのばれる。この書簡集のほかに、インタビュー集『コルタサルが語るコルタサル』も手がけており、現在イリノイ大学で教鞭をとっているとのことだ。長らくパリで暮らしたコルタサルとは1972年に知り合い、文通は亡くなる前年(1983)までつづいた。

 かつての《ブーム》の作家たちの書簡集は、このごろよく見かけるが、コルタサルはなかでも群をぬいて筆まめだったといえる。一昨年に、スペインのアルファグアラ社から、3巻本、2千ページのぼうだいな『書簡集』が刊行されたが、そこに収録されなかった手紙で、さらに何冊かの書簡集が編めそうだ。

 この『赤毛の女への手紙』はそうした一冊だが、ビジュアル的にも楽しい本で、いろんなスナップ写真や、直筆の手紙や絵はがきがそのまま印刷されている。書き損じのまったくない、流れるようなコルタサルの筆跡は、目にも美しく、『石蹴り遊び』のあのやわらかな文体をほうふつとさせる。圧巻は、さきのインタビュー集をめぐる手紙のなかで、コルタサルが、自身の発言に異常なまでのこだわりをみせるところだろう。発言の中身ではなく、その語り口に、だ。ひと月半ぐらいかけて、「読者のために、そして私たちふたりのために」、ことばの「スイング」を「徹底的に」調節したいと申し出ている。コルタサルには、伝説的なジャズマン、チャーリー・パーカーをモデルにした傑作がある。


■某月某日 新入生の合宿で、伊豆半島の天城峠にやってきた。若い同僚が楽器をもってきており、あとでアルゼンチンの民族音楽を演奏してくれるらしい。聞けば、すこし前までは、奥さんと六本木のとある店で、フォルクローレを踊って小遣いをかせいでいたという。

 こちらへ来るバスにゆられながら、先ほどまで読んでいたのは、エレナ・ポニアトウスカの『樹木の言葉』という本だ。メキシコのノーベル賞詩人オクタビオ・パス(1914-1998)の思い出をつづった本で、40年にわたるふたりの会話が随所に織り込まれ、肩の凝らない本に仕上がっている。

 メキシコの著名なジャーナリストであるポニアトウスカは、政府軍による虐殺事件を糾弾した『トラテロルコの夜』など、折りにふれて社会派的なルポルタージュを手がけてきたし、二年前(2000)に来日した折りにも、メキシコ南部で武装蜂起した先住民組織サパティスタ国民解放軍を評価する講演をおこなった。しかしそうしたシリアスな著作とはべつに、ポニアトウスカは、カルロス・フエンテスやフアン・ルルフォなど《ブーム》の作家たちへの屈託のない陽気なインタビューでも知られる。そのギャップの大きさにいささか戸惑うときもあるほどだ。

 金髪で青い目の彼女に胸中を開いたひとりであるパスは、20代のころのポニアトウスカについて、「その元気溌剌【はつらつ】なところと、その途方もない愛嬌のよさ」に引きつけられたと語っている。しかし歳月が流れ、パスの晩年になると、ふたりの友情は途絶えてしまう。『樹木の言葉』のなかで示される理由は、いまひとつよくのみこめないが、パスに出くわすたびに、怒りの目を向けられ、10年も口もきいてくれなかったという。

 そうしたこともあってか、パスがノーベル賞を受賞したおりにポニアトウスカは、メキシコの有力紙に寄せた文章のなかに、こういう一文を忍びこませている。――「35年前の彼には尊大さのひとかけらもなかった」。


■某月某日 伊豆での合宿からの帰り道、サイクルスポーツセンターというところに立ち寄った。ここは自転車の国である。サイクルモノレールや露天風呂など、いろんな楽しい施設もあったが、気がついてみれば、ヘルメットをかぶり、スポーツタイプにまたがって、五キロサーキットを疾走していた。もっとも疾走したのは最初の長い下り坂だけで、あとは舌を出してあえぎながら坂道をのぼり、学生たちの前でぶざまな姿をさらすことになってしまった。

 天城の山並みをながめながら弁当を食べ、帰りのバスでは『逆光のなかのボルヘス』を読んだ。これはボルヘスの恋人であったエステラ・カントが晩年に書いた回想録で、ボルヘスの性的なトラウマなどをあかして、いろいろと物議をかもした本でもある。

 まだ二〇代であったエステラ・カントに、四〇代半ばのボルヘスがどれほど夢中になっていたかは、収録されている十数通の恋文を読むとよくわかる。手紙はスペイン語や英語で書かれており、ボルヘスの目がまだ視力を保っていたころのものだ。――「エステラ、エステラ、あなたのそばにいたい。そっと静かに寄り添っていたい」「どうか、あなたにとって、私がまだなんらかの意味のある人間であることを、ほんの一言でいいから、言ってもらえませんか」。

 ボルヘスが失恋するたびに、彼を慰めることの多かったビオイ=カサレスは、「好きな女性があらわれるとボルヘスは、身も心も捧げ尽くすような態度に出たので、かえってそれでいやがられたんだよ」と語ったことがあるが、なるほどそうかもしれない。

 ボルヘスは何度か精神分析を受けたあと、エステラ・カントに結婚を申し込むが、あえなく断られてしまう。そのころの傑作「エル・アレフ」の末尾には、「エステラ・カントに捧ぐ」とある。ボルヘスは、その手稿も彼女に贈ったが、エステラはそれをボルヘスが亡くなる前年に、二万五千ドルで売り払った。
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