オンラインその場の勢い日記でした……とはいえ、
誤字脱字などが、とっても目立つのも特徴です。
とほほ……
日々更新しておりました『さるさる日記』は
2003年3月11日
に削除いたしました。
『さるさる日記』の最終カウンターは『72,688』。ありがとうございました。
『さるさる日記』前後の過去ログについてのお問い合わせありがとうございます。
書き散らかしている日記の過去ログは
順不同不定期『適当』に貼りつけて放置その辺にあったりします。
消えた過去ログも多少数ヶ月分あったりします。
隠し扉があったり消えたり、
迷走する闇の猫はいつになったら落ち着くのかしらん。
03年『月刊丸12月号』に『秋水』について書きました。
そのきっかけとなった
『秋水会』監修の『記録ビデオ』発売中
大人の事情
★2007年11月に離婚しました。
今は母子家庭となっております。
元団地妻になっちゃいました。
★日記更新のお知らせと、内容説明★
2004/4/6 内容不適切のためだか
勝手に消えました。
★パスワード制日記★
『パスワード日記』テスト始める。
2004/01/01
『日記閉鎖的』になる。
2003/12/31
.

03/6/20
また少し日記の設定を変更しました。

★03/8/27
『現実逃避』『言論の自由』って何?
と考える今日この頃。
有害図書な苦情ばっかなので日記のいくつかを削除したうえで
BBSに移動し、読みにくい仕様にしました。
なんどか体調を崩し、今は強心剤と酸素と気管拡張剤とニトログリセリンで
逝き延びております。
少しゆっくりしろと言うことかも知れません。
ゴム臭い『酸素マスク』を装着するまえに、
「戦中から殆ど同型なのねこれ」と、感じて嬉しくてそう言った。
そしたら付き添いの子娘が
「すみません母は戦中派なんです」と、看護婦さんに説明をしていた。
私はマスクしているから訂正できませんでした。
私は戦後の1962年に生まれ(たらしい)です。
念のため。

★2003/5/13
熊本県熊本市は軍都であった。
そして旧陸軍の飛行場として戦記好きに有名なのは健軍であろう。
しかし私は市外にあった花房飛行場のことも記したい。
昭和十二年旧日本陸軍飛行隊が九州第一号飛行隊用地として選び建設したのは、
現在の熊本県菊池市富の原。
当時は桑畑の広がる大地であったその地。主な作業は学生による勤労奉仕。
日中戦争時のことで、駐留部隊も幾度か変わる。
やがて太平洋戦争勃発。戦況悪化。それにともなう従軍男子の低年齢化。
昭和二十年五月、
同飛行場は陸軍加古川通信団教育隊となる。
教育隊は六個中隊、工員など総勢約六千人。
彼らは敵に発見されにくいよう
一棟約三百人収容のバラック小屋二十棟に分散され寝起きしていた。
教育内容は、地上、機上、方向探知の通信技術。
開校十日後の五月十三日。
米グラマン二十六機編隊による空襲爆撃。
三十六人の若い命が散った。
その後は軍からの食糧補給も途絶え、生き残った者たちは教育の合間に
カボチャ、イモ作りの自給自足の日々の中、終戦を迎えた。
この三十八人の犠牲者のうち埼玉出身の本藤健二郎君の遺骨が行方不明のままであった。
同隊隊長であった吉村清氏は戦後もこの地に留まり、隊舎のあった一角に自給自足で暮らし続け。
立派な慰霊碑を建立し、その墓守として戦後三十年以上この地で暮らした。
私がこの話を知ったのは高校生の修学旅行の時。
その頃はまだ吉村清氏はご存命であると聞いていた。
それから二十年近い時が流れた前世紀最後の年、
私は『高機道幻想ガンパレード・マーチ』という
架空世界の熊本の戦車学校部隊を舞台にしたゲームを知り夢中になった。
二千年十二月、私は取材のために熊本在住の予科練関係者と
ガンパレードマーチを開発したゲームソフト会社『アルファ・システム』訪ねた。
その二日目、街中を走る市電のプレートにある『健軍』という名を目にしたとき、
漠然と花房の陸軍飛行場のことを思い出した。
そしてその地の教育委員会に問い合わせたが、何一つ情報を得られず、
彼らのことはまたも記憶の奥にしまわれた。
そして今私は熊本関係の資料に埋もれながら仕事をしている。
取り寄せた本の中に、加古川通信団の記事が小さくあった。
書籍の中にある断片的な記述であっても、この部隊の墓守として生きておられた隊長さんの思いが伝わる。
隊長さんは今もご存命なのだろうか?
そして毎年四月の第一日曜日に開催されていたという慰霊祭は、今も続いているのだろうか。
具体的な情報が得られた今なら調べようがある。
その記述に気がついたのが彼らの命日というのも、何かの縁なのだろう。
【参考文献】
各駅停車・全国歴史散歩/熊本県
熊本日日新聞社編・河出書房新社
昭和五十八年四月三十日初版発行。
(名称は原文ママなんだが通信団教育隊とはどんな組織なんだろうか。
高校の時は確か私たちと年齢の変わらない少年たちが犠牲となったと聞いていたけど。
『陸軍航空通信学校加古川教育隊』とは別なんだろうか。
今度きちんと調べないと)
★2003/5/21
熊本在住の某さんが、先日の日記に書いた花房飛行場跡地に出かけてくださったそうだ。
慰霊碑もあり、当時の関係者もご存命だとか。
明日には現場の写真も送ってくださるとのこと。
嬉しい。

2000年5月10日午前0時54分
この時を逆行させることが出来るなら。
思春期の夢と憧れ。
ある意味間に合っていたのか、何度も収録に立ち会えて、一緒に飲むことも出来た。
でも今も惜しい、惜しくてしかたない。
貴方の声が聞きたい。
2003/5/10

森川久美さんから講談社文庫版『上海1945』が贈られてきた。
わたしらさぁ、互いにできることで戦争を描こうなと、
飲んだくれたこともあったっけ。
そのうちまた熊本へ飲みに行こうと、先日長電話。
熊本の水は本当に美味しい。
2003/4/28

S社の某さんから贈っていただいた四冊の本の中の
『メディア・コントロール』
著者 ノーム・チョムスキー
訳者 鈴木主税
発行所/集英社 2003年4月22日第一版 定価660円税別
めちゃ面白いんです。
喉の骨がとれるような面白さがあるというか。
あとの三冊はまだパラパラ見ただけ……
ていうか読み込みそうなので、慌てた。
修羅場抜けたときの御褒美にとっておこう。
2003/4/27

制空権が危うくなりつつあった
硫黄島
から米軍占領下のサイパン島まで
第一御楯隊
という零戦の特別攻撃部隊を案内し生きて還った
彩雲搭乗員最後の生き残りであるNさんが自費出版の記録誌を贈ってくださった。
日米双方の記録のすりあわせによる同時の戦闘状況再現
ご遺族の切なる思い。
はぐれてしまったもう一機の彩雲の行方
慟哭するでなく、嘆くでなく。
坦々と史実が述べられている本
傷痍軍人でもある氏とは何度も会っている。
涙を見たことも何度かある
この書籍は氏の祈りだ。
2003/4/14

『沖縄県民かく戦へり/大田実司令官』
沖縄島に敵攻略を開始以来、
陸海軍方面防衛戦闘に専念し、県民に関してはほとんど顧みる暇なかりき。
然れども本職の知る範囲においては、
県民は青壮年の全部を防衛招集に捧げ、
残る老幼婦女子のみが相次ぐ砲爆撃に家屋と財産の全部を焼却せられ、
わずかに身を以て軍の作戦に差し支えなき場所の小防空壕に避難し、
砲爆撃下風雨に曝せれつつ乏しき生活に甘んじありたり。
然も、若き婦人は率先軍に身を捧げ看護婦、
炊事婦はもとより砲弾運び、挺身斬込み隊すら申し出るものあり。
所詮敵来たりなば、
老人子供は殺さるべく婦女子は後方に運び去られて毒牙に供せらるべしと、
親子生別れ娘を軍衛門に捨てる親あり。
看護婦に至りては軍移動に際し衛生兵すでに出発し、
身寄りなき重傷者を助けて真面目にして一時の感情に駆せられたるものと思われず。
更に軍に於いて作戦の大転換あるや自給自足、
夜中に遥かに遠隔地方の住民地区を指定せられ輸送力皆無のもの
黙々として雨中を移動するあり。
之を要するに陸海軍沖縄に進駐以来、
始終一貫勤労奉仕物質節約を強要せられて御奉公の---を胸に抱きつつ
遂に---ことなくして本戦闘の末期と沖縄島は実情形---
一木一草焦土と化せん。
糧食6月一杯を支ふるのみなりと謂う。
沖縄県民かく戦へり、県民に対し後世特別の御高配を賜わらんことを。
【以上引用終わり】
1945年 3月23日 硫黄島の日本軍玉砕(全滅)。
1945年 3月26日 沖縄県慶良間諸島に米軍上陸。日本軍が米軍上陸地点と予測していたのは別の場所であった。
1945年 4月1日 現在の読谷・嘉手納の海岸に米軍上陸。
(上陸に先立ち、米軍は10万発の艦砲攻撃し徹底的に露払い。この上陸によって沖縄本島は分断された)
1945年4月8日〜25日 浦添、嘉数周辺にて日本軍による初の猛攻。
だが兵力の差は補えず。結果肉弾戦となる。
貧相な軍装での夜襲。
地元で招集された少年兵が爆弾を抱え戦車に体当りとか。
私が取材した十代の旧陸軍少年戦車学校出身の戦車兵たちも、ここで行方不明多数。
1945年4月19日〜
『首里攻防戦』連日の艦砲射撃に首里城をはじめ琉球王朝文化財の殆どが壊滅。
また、日本軍の抵抗も激しく、
壮絶な攻防戦が繰り返され、双方に多大な犠牲者が出た。
1945年5月23日 熊本市健軍から義烈空挺隊出撃。
決死、否、必死の切り込み隊として九七重爆撃機12機に分乗、
沖縄の米軍飛行場に強行着陸。
『(米軍側の記述)5月24日午後8時頃、
読谷と嘉手納の飛行場は
「義烈」空挺部隊の襲撃の序幕として日本機による爆撃を受けた。
その2時間半後、
読谷基地の高射砲の砲手や飛行士たちは、
日本軍の飛行機数機が、
無鉄砲にも、だが自らの意志で着陸しようとしているのを見て、びっくりした。
1機除いて、これらの飛行機は飛行場上空で撃墜されたが、
あるものは地上施設や地上にある飛行機に激突しようとし、
あるものは燃え上がって墜落してしまった。
撃墜されなかった1機は胴体着陸を強行し、
滑走がまだ停止しない内うちに空挺隊員は飛行機からとび出して
手榴弾や爆薬を近くの飛行機に投げ、
さらにその一帯を小火器で掃射し始めた。
(中略)
攻撃が終わったときに79人の日本兵の死体が数えられ、
捕虜となった者はなかった。』
サンケイ出版第二次世界大戦文庫22 「沖縄」より引用
(過去日記より再掲)
1945年 5月31日 首里陥落。
(戦死者:日本軍6万4000人兵員の80%・米軍は1万人)
1945年 6月4日 米軍第6海兵師団が沖縄県南部、小禄海岸近くに上陸。
1945年 6月6日 米軍は沖縄県南部の豊見城にある海軍司令部壕に対し攻撃を開始。
その直後かと思われるが、海軍の大田実司令官は海軍次官宛に戦況を綴った電文を送信。
その最後に
『沖縄県民かく戦へり』
を記していた。
1945年 6月11日 米軍の一斉攻撃により、司令部壕は壊滅的な打撃を受ける。
1945年 6月13日 豊見城の海軍指令壕にて大田司令官以下、幕僚が自決。
沖縄での日本海軍の組織的戦闘は終了した。
しかし陸軍(第32軍)の戦闘は継続しており、米軍の攻撃は続く。
男子中等学校生の鉄血勤皇隊、高等女学校生らの看護要員を含め、
非戦闘員、老若男女、沖縄県民の多くは戦火の中にあった。
1945年 6月23日 『最後まで敢闘し悠久の大儀に生くべし』
と軍命令を下し、旧陸軍牛島司令官が摩文仁の壕にて自決。
沖縄戦を指揮する第32軍の組織的な戦闘は終わった。
沖縄県民にとってこの日が終戦記念日だと、
沖縄生まれの仲村夫はいつも言う。
2003/4/10
追記
沖縄県調査による、日本側の戦没者本土出身の日本兵6万5908人
県出身の軍人軍属2万8228人
一般県民約9万4千人
残念ながら現地徴用された中学生たちや一般県民の戦没者数は確定ではない。
学業半ばで招集された中学低学年男子は通信隊として、
部隊の連絡のため戦地を駆け回った。
上級生は戦闘要員として肉弾兵として駆け回った。
彼らの最後の写真のいくつかは米軍の記録にある。
幼さの残る中学生らしき少年の射殺写真。
手榴弾片手に握ったまま、目を見開いたまま。
同じく米兵に向かって斬り込み倒された女学生。
射殺した相手が幼さの残る女性と知り呆然とする米兵。
しかるに彼ら彼女らの名は判明していない。
家族の全滅、同級生たちの全滅のためだろうか。
生活圏での戦争。
今現在でも書き加えられ続けている沖縄県戦没者名簿。
戦火による戸籍紛失。
一家一族全滅もあるために不確定な数字を
記録とするしかなかったもどかしさ。
一般市民の被害把握の難解さ。
それはあらゆる戦渦にあてはまるのかも知れない。

熊本市九品寺の居酒屋『味のれん』にて
あ、目が赤い〜

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