幸村の関ヶ原


 長男信之は徳川、本多忠勝の娘を娶り、徳川と深いつながりを得た。幸村は豊臣氏に出仕して奉行大谷吉継の娘を娶った。

 慶長五年(1600)、会津の上杉景勝を征伐すべく関東に下向した真田の陣中に石田三成からの密使が届いた。犬伏にて親子三人は今後の進退を決めたが、父昌幸と幸村は石田方に、信之は徳川方につく事になった(江戸時代の川柳子では、東西に身ごろを分ける真田紐 たね銭が関東方に残るなり、と揶揄されている)。昌幸、幸村は早速上田城に帰り篭城の準備に取り掛かった。上田城は中山道から少し外れている。なぜ秀忠が攻める必要があったのであろうか?秀忠の性格的なもの、そして進軍するに当たり、背後に敵を残していくことになること、そして、かつて攻略できなかった城を己が抜いてやろうと思ったと考えられる。また、二木謙一氏が興味深い見解を述べている。秀忠は本合戦が初陣であった可能性が高く、緒戦を勝利で飾って父家康と岐阜あたりで合流したいとの目論見があったといっている(関ヶ原の合戦、中公新書)。

 寛政重修諸家譜と真武内伝によると上田を目指す昌幸、幸村父子は休息と孫の顔を見るために、信之の居城沼田に立ち寄った。留守を預かっていた信之婦人小松姫は城主信之不在にて、いかに父とはいえども城内に入れることはできない。と言ったそうである。昌幸の計略を見抜いてか、信之からの手紙が先に着いていたのか不明であるが、さすがは本多忠勝の娘である。

 九月二日に小諸城に入った秀忠は、昌幸父子に開城の使者を送った。この時の使者に信之も入っていたようである。一旦降伏して城を明渡すといっていた昌幸は時間を稼ぎ、結局は突っぱねた。秀忠は五日には信之に伊勢崎砦を攻めさせ、砥石を無血開城させている。六日、秀忠は城を包囲した。城中から小部隊が出てきたので大軍が進んでしまい城内からの鉄砲によりかなりの被害を受けた。烈祖成蹟によると、幸村は伏兵隊を指揮し、徳川軍の側面を突く活躍をしている。本多正信は、「上田など小城のことより、西上すべきである」と意見したにもかかわらず取り入れられなかった。この敗戦は正信も予想していたようで、大久保忠隣の旗奉行杉文勝、牧野康成の旗奉行熱掃部に死を命じている。

 この奇襲攻撃が功をそうし、七日西上する秀忠軍はとんでもないことをしてしまう。一旦小諸城に帰り、森忠政、仙石秀久らを抑えとして、自らは本軍を率いて西上したが、本道である和田峠を越えることを避け、険しい大門峠を越えて美濃に向かった。これは秀忠が、伏兵があるものと疑心暗鬼になってしまい、わざわざ遠回りしたのではないか。このとき、榊原康正は、もはや伏兵などあるわけが無いといい、一隊だけ本道を進んでとっとと先に進んで待っていたという話もある。

 以上のようなことがあり、関ヶ原には間に合わず、父家康から大目玉をくらう。ここまでは真田父子の作戦は成功したが、いかんせん本体の西軍が負けてしまったのであるからしょうがない。昌幸、幸村父子は戦後、高野山ふもとの九度山に蟄居することになる。ただ、かわいそうなのは、秀忠のこの怒りが、将軍在任中は信之に向けられていくことである。