永禄十年(1567)、武田信玄の家臣武藤喜兵衛の次男として生まれた。兄信幸とは一歳違いである。母は山の手殿とされているが、この山の手殿はどこからきたのか?というと諸説ある(菊亭大納言晴季の娘、正親町実彦の姪、宇田下野守頼忠の娘、信玄の養女等)。彼の名前が始めて文書で現れるのは、1585年武田家滅亡後、第一次上田合戦(神川合戦)の時である。家康と断交した昌幸が、徳川軍の襲来に備えて越後上杉景勝に救援を呼ぶための人質としてからである。「真田幸村のすべて、小林計一郎氏」によると「景勝一代略記」を参考にして、昌幸の次男弁丸を越後に差し出すとある。歳にも二説あるが、このとき16歳であったとする説が有力である。なぜなら、弁丸はまだ元服していない子供の名である。もう一つの説ではすでに19歳という計算になる。この歳で元服していないのは、当時のことではちょっと変わり者である(しかし、井伊直政も元服は遅い=寵童として家康のお気に入りだった!、寵童ではなかったという説も当然あるが)。
幸村は天正十三年の末から翌年にかけては、上杉の下から脱して秀吉の下に走っている。
著者思うに、村松殿 (昌幸の長女で小山田家に嫁ぐ) と母が同じの様な気がする。信之より先に生まれたが、母の身分が低かったため、次男として山の手殿が育てたのかも。ちなみに井伊家でも直継と直孝は似たような関係である。ただし、本領彦根は次男直孝が継いでいるが。。。
