神川合戦での幸村

 天正十年(1582)三月、武田氏は滅亡し、昌幸は二月には北条氏に帰順したい旨を示した。そして四月には織田信長に馬を送っていっる。六月に信長が本能寺の変で自刃すると、七月、また北条氏に属し、上杉と対陣している。九月には徳川家康に属したが、十月に徳川−北条の若神子での戦い後、講和が成立すると、ほぼ独立した地位を得た。このとき、徳川の勝手な裁量による沼田問題が生じたことは井伊直政の項でも述べた。北条側からの沼田を明渡すようにとの要求を昌幸は突っぱね、上杉に次男幸村を人質として送った。このように父である昌幸の二年ほどの世渡りで、列強の狭間に立つ小大名の苦悩が窺い知れる。表裏比興と言われる昌幸であるが、自家存続のためのやむを得ない行為であり、それどころか、昌幸の外交手腕を評価することができる(徳川家康には稀代の横着者といわれ、三河後風土記には生得危険な姦人とまで言われている)。

 天正十三年、徳川家康は、鳥居元忠、平岩親吉、大久保忠世らに兵七千で上田城を攻略させた。支城砥石城には長男信之を置いた。幸村は上杉に行っていたため本合戦には参加していなかったと見るのが妥当であり、池波氏の「真田太平記」(小説なので!)の記述とは多少異なると考えられている。徳川勢は多勢を持って真田を侮り、城下三方から攻め寄せたが、狭いところで大群がひしめき合っているのだから、鉄砲は面白いように当たる。結局退却せざるを得なかった。道路に柵があったり、伏兵に苦しめられたり大きな損害を出した。大久保彦左衛門の「三河物語」によると、徳川勢は「ことごとく腰が抜けはて」「下戸に酒を強いたる風」であったと記述している。また、信之は「遠州より勢をだし候間、去る二日、国分寺において一戦を遂げ、千三百余討ち取り、備へ存分に任せ候」と書き送っている。当時二十歳の信之は「徳川怖れるに足らず」との感を持ったに違いない。

 徳川方は懲りずに支城丸子城を攻めたが、これさえも抜けない。そうしているうちに、徳川家では筆頭重臣の石川数正が出奔して秀吉方に走ってしまうと言う事件がおき、出兵中の兵を呼び戻した。昌幸は徳川の大軍を破ったということになり、武名が高まった。真田の戦い方を見ると、小勢で城にこもり、大軍を迎え撃ち、伏兵や奇策をもって損害を与えるというやり方である。幸村は上杉に居たが、大いに学ぶことはあったと思われる。