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「赤備え」とは、鎧兜をはじめ旗指物、馬具、刀槍の外装、陣羽織等のあらゆる武具を朱塗りにした軍団のことを言う。戦国期では、全体として色調が赤であれば「赤備え」と言われた。決して、一人の武者のことを赤備えとは言わないのである
(この場合は、朱具足に身を包んでいると言うべきで、朱武者ある)。軍団として初めて機能し、赤備えと言う。
戦国時代の初期には、鎧、具足など個人の思い思いの物を着て戦ったが、後期になると集団戦術の重要性から一隊、一備の将士が同色の具足を付けることが初まった。赤備えはその内の一つであり、足軽から武士も一様に赤の具足を着用した部隊である。敵に対して脅威を与え、味方の識別に役立たせるためであった。
しかし先程も述べたように、中世的軍団である武田家の飯富隊、山県隊、小幡隊などは、色調的にすべて赤で統一されていたとは考えにくい。それは朱漆を輸入に頼っていたという中世の歴史的背景があり、下級武士などは赤一色の具足を揃えることが出来なかったと推察される。よって、「朱塗りの胴に、兜は鉄の日根野兜や越中頭形」と言うようなことは、多々あったと思われる。
平安、鎌倉時代から赤い鎧を着た武者の活躍が見うけられるようになる。梁塵秘書によると「武者の好むもの、紺よ紅山吹蘇芳茜・・・・」とあり、りりしい武者姿を表す方法として、白拍子がそのような姿をしていたと言う記述もある。軍記物には赤を用いた鎧のことが多く書かれている。源平盛衰記、平家物語の記述によると、大将級の武将は黒、萌黄が主を占め、赤は一騎掛けをする武士に多い。中級武士で若い侍、たとえば板東の足利又太郎、畠山次郎といった一郷の主などは赤系の鎧に身を包んでいた。赤は華麗な色ではあるが、軽々しいというイメージもあったようである。佐奈田与一と源頼朝の以下のような話もある。石橋合戦のおり、頼朝が「与一の装束、毛早
(派手) に見ゆ、着替えよかし」と命ずるシーンである。しかし与一は、「弓矢を取る身の晴振る舞い、戦場になんの過ぎたる事候まじ」と、"
命のやりとりする場に出立ちなど関係無い、大将にも遠慮など必要ない!" と言い、配下と共に最前線で戦い戦死したという
(源平盛衰記)。頼朝にとっては、赤は禁色の観念があったらしい。頼朝の考えは、延喜式弾正式にあるように、「おおよそ赤白つるばみのほうは、参議以上之を着用するを許す」とあり、高貴な身分にのみ許される色との意識が強かったと見える
(江戸時代にも色にまつわる事件として紫衣事件がある)。
戦国時代には色々な備えがあり、後北条家には五備えがあったとも言われている。五行説を取り入れ、関東の北を守る平井に黒、川越に黄色、栗橋に青、西の伊豆に白、南の相模に赤の軍旗を用いるようにしたと言われている。相模甘縄の北条綱高が赤を用いた具足で身を固めていたと言われる。黄八幡の旗印ので有名な北条綱繁は、武州川越城主であり、黄色い旗指物をつかっていた事は紛れもない事実である。真田四兄弟の信尹がこの指し物を奪い、信玄公よりこの綱繁の旗指物を使うようにと言われ、武勇を褒められた話は有名である
(本旗は現存している)。
武田にも赤備え以外に、典厩の黒備え、高坂の黄備えがあったとされているが、真偽のほどは明らかでない。また、山本勘助が諸国流浪のおり、九州に立ち寄った。そのとき鍋島の赤備えを見て、武田家に仕えるとき板垣信方に進言し、信方が信玄に報告して武田の赤備えができたとも言われている。
三方が原の物見という講談に、武田の五色備えの話が出ているが、これは歴史的な事実との関係はちょっと分からないが、参考までに下記に記載しておく。
「さて、真っ先に見えたるは、赤字に正八幡大武神と描いたる旗、赤字に白く桔梗の紋付きたる旗、銀の双股大根、一段幡連の馬印を押し立て、雑兵に至るまで皆茜色の陣羽織を一着なし鶴翼に備え、その勢三千余人、これ甲陽名代の赤備え、山県三郎兵衛昌景なり。それより右手少し離れて、白地に大山道段々染の旗、銀の十六葉枝菊に、金短冊十八枚付いたる馬印を押し立て、足軽小者にいたるまで、皆白木綿の羽織を着成し、三千余人の白備え、旗下に立ったる大将は、甲陽にて知者として知られたる、源三位兵庫頭頼政の末裔、信州槙の島城主たる馬場美濃守信房なり。その次は紺地に白く、四つ石畳の旗、銀輪違いに朱の一段幡連の馬印、小者にいたるまで皆一様の黒備えにて、その勢二千余人、これ信玄秘蔵の勇士、二十歳の時に国家の政治をを司り、家老の列に加わりたる前名金丸平八郎、当時土屋の家名を継ぎ、土屋右衛門尉直村とこそ知られたり。それと相並んで黄地に藤の丸の大旗、金の亀甲に、黄沙羅の幡連の馬印を押し立て総う紺の備え、同勢二千余人は内藤修理亮昌豊。浅黄地に六文銭の旗一流、唐人傘の馬印を押し立て、総浅黄地の備えせし二千余人は、海野小太郎幸氏より十七代目の後胤にて真田源太左衛門尉信綱なり。これ甲陽先手五色備えと号すなり」。
以上赤備えとは、赤い色調に統一した軍団の事であり、山県昌景、飯富虎昌、小幡信貞、浅利信種、井伊直政、真田信繁などが率いたとされる。彼らに共通して言えることは、強兵を持って名前が知られ、常に戦場では先鋒を承っていたことである。赤に統一した軍団を率いていたと言うことは、非常に目立つため恥ずかしい戦いは出来ない。実力もあって大将の期待を裏切らないと言う信頼が有ってこそ許された名誉の色、備えなのである。井伊軍記のなかに面白い記載がある。甲州系の侍達が、赤色は小勢でも多勢に見えると言っていることである。カラーコーディネーターの話によると、赤色は確かに膨張色であり、遠くにあっても大きく見える傾向にあるそうである
(比較的、赤色の車の交通事故は少ないというのはこのためか?)。赤い鎧を着たときは、戦見栄する必要はなく、ただ単に手柄を立てることに専念しなければならない。よって大将側からすれば、視覚的効果、及び質実剛健をも期待できたと考えられる
(井伊家の甲冑を見て分かるとおり、装飾は全くと言って良いほど無い)。
しかし、明治維新前の長州戦争おりに、幕府軍として戦った井伊家の無様ぶりも書いておかねばならない。累々と鎧だけ道々に置き棄てられていたそうである。その鎧を長州側は甲冑の鎧の主を調べ、嫌みたっぷりに彦根の持ち主に返却したという事実がある。鉄砲等の飛び道具が戦場でも主役と移り変わったことと時を同じくして、赤備えも、歴戦の勇士の軍団としての資格は消されていったのである。
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