土屋惣蔵昌恒の井の字の旗指し物と義信生存説 2 

 まず本誌の登場人物である土屋惣蔵昌恒について、大日本人名辞典より以下のように要約がある。

 武田氏の臣、昌次の弟、惣蔵右衛門と称し信玄に仕え駿河国宇津房に於て今川氏真と合戦の時、昌恒十三歳にして今川の臣岡部忠兵衛某の士卒をを打ち取る。長篠の合戦敗軍の時、勝頼に従うもの昌恒及び初鹿野伝右衛門昌久の二人のみとなり、勝頼その忠心を感じ、兄右衛門昌次及び土屋備前某が家人同心等をことごとく昌恒に属す。
 天正十年三月、勝頼田野の奥天目山に入って生涯の時家臣等ことごとく皆落亡せ、昌恒ら四十余人のみ従へ滝川一益、河尾鎮吉が兵と共に挑み戦う事数度にして討ち死にす。享年二十歳。

 (つぎに惣蔵と「井」の旗に関して説明があるが、ここは多少無理がある説明が書かれている。原文をそのまま写すことにするので、皆さまの御意見をお伺いしたいところです。)

「永日記」
永日記に土屋とありて土屋惣蔵となくとも、事実上主従密接の関係にある武田信虎とあり、また之には惣蔵の養父土屋忠兵衛の名も出ている。よって後まで付き従う其の念に感じ云々とあり、惣蔵は信玄の死に殉死のことあり。桐にはなれぬものは井なり、とて土屋に井の字を給うとあるからには此程に土屋とあるのは土屋惣蔵なる事万目の一致するところであらふ云々。
 信虎は土屋に井の字を給ふたのは要するに永日記に「土屋一人後まで付従ふ其念を感じ」とあり即ち信虎は「惣蔵は信玄の死に殉死せんとした忠節の真心を知り井の字を給ふたのである」
 信虎は惣蔵の誠忠に感じ自分が義輝公より賜りし桐の御紋章に最も縁の近き且つ武田家最高名誉の表彰として井筒の紋を給ふたのである

 (ここで一ヶ所間違えがある。信玄の死に殉死を願い出たのは惣蔵ではなく兄の昌次の方である。甲陽軍鑑によれば高坂弾正に「今死ぬことは簡単である。生き永らえて信玄公の意志を守り勝頼公のために働いて欲しい」と言われたそうである。昌次が設楽原で戦死した後、全てを引き継いだ昌恒に井の字が渡ったと考えるのが妥当かもしれない。永日記は江戸時代の大名土屋日向が記した書物である。)

 また、井の字の旗を賜った理由が非常に不明確であり、納得ができない。設楽原の合戦で甲斐まで付き添った事への感謝なのか?前の殉死では話が通じない。

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