| 富谷町 |
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| 奈良木城 (黒川郡富谷町富谷字奈良木) |
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| 所 在 |
奈良木城全体図 (南東側より撮影) |
調査中 |
| 歴 史 |
道路脇にある標柱 |
この館跡は、仙台藩から江戸幕府へ書き上げた『仙台領古城書上』等の文献や伝承によれば、東西六間、南北十間の規模で、城主は不明。中世の館跡とみられ、江戸後期の絵師、吉川十兵衛が文政六年(一八二二)に描いた大童村や富谷村の絵図にも「サクラタテ」として描かれている。 山頂部には本丸跡とみられる比較的狭い平場があり、北方の鶴巣城へ通じる道が山中にあったとされる。 (標柱より) |
| 規 模 |
調査中 | |
| 鳥屋又館 (黒川郡富谷町西成田字八百刈) |
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| 所 在 |
鳥屋又館全体図 (北西側より撮影) |
調査中 |
| 歴 史 |
県道56号線沿いにある標柱 |
この館跡は、古い文献に記録が無く、その規模や城主、年代等については江戸時代後期の絵師である吉川十兵衛が、文政六年(一八二三)に仙台村や成田村の実測による絵図に『トウクリタテ』として描かれている。 周辺には大童館跡、奈良木城跡、熊野館跡等があり、相互の関連も考えられる。山頂部には本丸跡と考えられる比較的広い平場が見られる。 (標柱より) |
| 規 模 |
調査中 | |
| 熊野館 (黒川郡富谷町西成田字白鳥囲) |
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| 所 在 |
熊野館全体図 (南西側農道より撮影) |
調査中 |
| 歴 史 |
鳥居脇にある標柱 |
この館跡は、江戸時代に仙台藩から幕府へ書上げた『仙台領古城書上』などの文献や伝承によれば、中世にこの地方を治めていた黒川安芸守の家臣、成田源兵衛が天正年間(一五七三〜九二)まで居城したとされ、その規模は東西五十間、南北四十間とある。 山頂部にある熊野神社の境内が本丸跡と推定され、その西側には空堀等の防御施設もみられる。 (標柱より) |
| 規 模 |
![]() 城館跡にある熊野神社 |
調査中 |
| 大童館 (黒川郡富谷町大童字養禅寺) |
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| 所 在 |
大童館全体図 (南西側農道より撮影 |
調査中 |
| 歴 史 |
道路沿いにある標柱 |
この館跡は、江戸時代に仙台藩から幕府へ書き上げた『仙台領古城書上』などの文献や伝承によれば、中世にこの地方を治めた黒川安芸守家臣の大童豊後が天正年間(一五七三〜九二)まで居城したとされ、一説には天正五年まで一族が居城しその間八十四年といわれています。 東西七間、南北十八間で、(破損につき判読不明)側に空堀があるとされて(破損につき判読不明) (標柱より) |
| 規 模 |
調査中 | |
| 鹿鼻城 (黒川郡富谷町穀田字丸森) |
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| 所 在 |
鹿鼻城全体図 (北側より撮影) |
調査中 |
| 歴 史 |
あぜ道脇にある標柱 |
この城館は、江戸時代の古文書や伝承から、永禄年間に黒川家々臣平山長右衛門重国が居城し、その後安藤丹後守の居城となったが、天正末頃黒川安藝守と共に滅んだとされています。 丘陵上には建物が建っていたと考えられる平場や、平場を防御する施設が随所に見られます。 (標柱より) |
| 規 模 |
穀田川 |
調査中 |
| 小野目館 (黒川郡富谷町明石字小野目) |
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| 所 在 |
小野目館全体図 (東側より撮影) |
調査中 |
| 歴 史 |
道路沿いにある標柱 |
この館跡は、江戸時代に仙台藩から幕府へ書き上げた『仙台領古城書上』などの文献や伝承によれば、中世にこの地方を治めていた 黒川安芸守家臣の鈴木美濃が天正年間(一五七三〜九二)まで居城したとされ、その規模は東西五十間、南北二十間とあります。 山頂部には建物があったと考えられる平場があり、その周辺には空堀等の防御施設も想定されます。 (標柱より) |
| 規 模 |
調査中 | |