大崎市田尻


沼向古館(諏訪部館・飯田屋敷)
(大崎市田尻八幡字沼向)



沼向古舘全体図
(南側・農道より撮影)

 県道35号線沿いにあるこの小丘に、沼向古館跡があったといわれています。
 かつて、この辺り一帯が沼地であったため「沼向」の地名が付けられました。
 現在は諏訪部八幡と呼ばれる小祠が建っていますが、ここを南端として北側の民家にかけて伸びる丘が、かつての館跡と思われます。



道路脇にある標柱
 奈良時代の土師器破片が出土している。この辺一帯は新田柵擬定地の一部である。因に仙台藩士飯田氏が藩公からこの土地を賜り、大正二年(一九一三)まで約二百年間その居所があった。(標柱より)

この館については、次のような伝説が残されています。
 かつてこの地に諏訪部某なる武士が住んでおり、屋敷には美しい下女が仕えていたそうです。
 諏訪部はこの下女を側室にしようとしましたが、彼女は意に従わなかったため、打ち首となりました。
 その後、諏訪部一族はこの下女の祟りにより滅亡し、この館跡の約400mほど西南にある諏訪部八幡は彼女の鎮魂のために建立されたといわれています。
 なお、寛文七(1667)年、伊達家臣・飯田清親(十五代)が栗原郡小野(今の古川市)からこの地に移り住み、三貫七百余文を領しています。



 高さ約20mの南北に伸びる丘陵が館跡だと伝わっていますが、現在では遺構らしきものは見当たらず、どこまでが館であったかを推定するのは難しい状況にあります。
 丘陵南西面に構えた屋敷地のようなものであったともいわれています。
「風土記」には、沼向の「古館」として、東西八間、南北十五間とあります。


通木城
(大崎市田尻通木字御室)



通木城
(西側・県道175号より撮影)
調査中



県道175号沿いにある標柱
 中世(戦国時代)、室田右衛門の居館といわれている。面積は東西約百五十メートル、南北約百メートルにわたる。城は東西約二十六間と記録にある。平山城形式のものと推定される。
(標柱より)



本丸跡にある竹駒神社
調査中


新田柵
(大崎市田尻八幡字御殿坂)



新田柵全体図
(東側農道・沼向古城近くより撮影)



新田柵東側
(道路南側より撮影)
調査中



大崎八幡神社入り口付近にある標柱


東側道路沿いにある標柱
 大崎八幡神社を中心に北方に続く丘陵地が奈良、平安期における新田柵跡とされている。神社境内周辺より土師器、須恵器、布目瓦、鎧瓦、宇瓦が出土し、東方に土塁、空濠の外塁線が見られる。
(大崎八幡神社入り口にある標柱より)


 八幡、大嶺を中心とする東西一.五キロメートル、南北一.七キロメートルの範囲の築地跡で奈良時代の新田柵とされており、この場所から外部北辺の築地跡が検出されている。
(道路沿いにある標柱より)





大崎八幡神社鳥居(上)と本殿(下)
 天喜五年(一〇五七年)源義家が奥州征伐の折、戦勝祈願のためこの地に社壇を設けたのがこの社の起りとされている。本社は大崎氏の崇拝厚く正平十六年(一三六一年)社殿を再興、大崎八幡と称した。明治五年郷社に列せられる。
(大崎八幡神社標柱より)



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